眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年9月27日(月)

在宅勤務の日。今日を含めてあと2回しか在宅勤務がない。来月以降はおそらく在宅勤務はないだろう。今日と木曜日の在宅勤務で、私は未来の私に何を残せるだろうか。前々から分かっていたことだけれど、いざ終わってしまうと思うと込み上げてくる悲しみを緩和させる術が分からなくて、なんだかふがいない気持ちになった。

 

 

既に忙しい気配に取り囲まれているので、猛烈に仕事をしないといけない、一日一日を確実にこなしていかなければいけないが、在宅勤務だと進められない仕事がある。未だにいちぶぶんにおいて紙ベースで仕事を進めている弊害を受けるのはいつだって下の者たちだ。どれだけ上に訴えたとしても、それを受け止めて柔軟に対応してくれるような組織であるならとっくのとうに変化している。今の会社で働き続けるということは失望を繰り返し続けて、何も感じなくなることが普通になることで、それに耐えられないならばさっさと転職してしまったほうがいい。そもそも今のぬるい仕事をして、やりがいや達成感を得ることがあっただろうか。そんな幻想に惑わされてはいけない、苦痛を我慢して仕事をするからそれの対価として賃金を貰っているわけである。一部の特殊な例を一般化してはいけない。そう思っても、こんなことをしてていいのだろうかという不安はいつまで経っても消えてくれないのだが。

 

 

天気がはっきりしないまま昼休みに外出する。同じところを散歩しているので、微細な変化でもすぐに気づくようになった。つい最近まで客が全然いなかった中華料理屋に客が戻ってきていること、あまり美味しくなかったカレー屋さんがしばらく店を開けていないこと、2カ月近く閉まっていたラーメン屋さんが久しぶりに店を開けて、店の外に行列が出来ていたこと。少しずつ街はコロナ前に戻りつつあるのだが、確実に第6波が来るので、私に出来ることは常に感染対策を行うことくらいか。コロナが一時的に落ち着いたせいかテレビはコロナの事を報道する際に前までの過激な熱がなくなって、どうでもいいことをえんえんと垂れ流していた、それはコロナ前からのことであるが。

 

 

昼過ぎから晴れ間が覗いたので、急いで洗濯物を干す。このままの軌道だと台風は今週の金曜日辺りに直撃する。1ヶ月に1度の外出の日、雨の率が高くないか。他の外出担当者が圧倒的な雨男である可能性が高い。普通の雨だったらいいけれど、横殴りで、立っているだけで吹き飛ばされそうな雨の中をずんずん歩いていくのはあまりにも滑稽で、外出の途中で情緒が不安定になって泣き崩れてしまうかもしれない。ネットがこんなにも普及しているのに、なんで足で稼がないといけないんだろうと。

 

 

定時にパソコンを閉じて、シャワーと夕飯を済まし、先日から読んでいた岸政彦「断片的なものの社会学」を読み終える。ずしんと来る読書で、今のところ今年一の読書体験だったのではないかとわくわくしている。今まで見なかったもの、それはうまいこと隠されていたぶぶんで、そういう現実が存在しているということを認識することで、日本、ひいては世界に対する見方が変わってくるだろう。もともとは、時に挟まれる、人の生い立ちを綴っているものだと思っていたが、岸政彦の裸の言葉がたくさん載せられていて、自分の思っていることを包み隠さず話す、自信がないことはそれをきちんと表明する姿勢にグッと来て、そういう人が書いた文章をもっともっと読みたいと思う。岸政彦の他の著作も読みたいし、他の方の文章もたくさん吸収して、内側から自分を変容させていきたい。今のままではいけない、もっとひりひりするような時を過ごしたいと思うけれど、それは同時に精神的負荷がかかることだと思うので、そのバランスはうまく取っていきたい。

 

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久しぶりにアニメを観た。「ぼくたちのリメイク」というアニメで、何となく気になって録画してて、ぽかんと時間が空いたので何気なく観始めた。1話の最初に主人公が自分の紹介を始めたり、物事があれよあれよと進んでいくのは如何にもアニメだなと感じたが、すぐに物語に惹きこまれ、第7話「いやなことも引きうけて」まで一気に観てしまった。久しぶりのアニメに若干の懐かしさと興奮を感じたのかもしれないが、うまく行かなかった人生を大学時代からやり直すという設定、一人ひとりが鬱屈を感じながらもそれにまっすぐ立ち向かっていく様なを見て、「自分もこのまま安穏としていられない」と勝手に思ってしまったから。読書はちょくちょくしていたが、がっつり物語に浸るのは久しぶりで、私が生きる世界ではここまでぽんぽんといろんな物事が起きるわけでもなく、色恋沙汰が起きるわけでもなく、同じことの繰り返しで、その対比にくらっとしてしまうと同時に、自分も心を熱くするような物事にのめりこみたいと本気で思った。なんだっていい。小説を書くことでも、楽器を始めることでも、人と会話することでも。今までの日常では発生していなかった物事にぶつかっていけば、「退屈だな」と呆れかえるほどの灰色の人生に少しは彩りを増やせるかもしれない。今の状態、自分から行動を起こさないと何も変わらない。誰かが親切心で私をせっついてくれるわけでもないし、ある日郵便受けに不穏な郵便物が届くわけでもない。自分の人生を少しでも面白いものにしたいと思ったなら、自分から動いて少しずつ背景を変えていくしかない。退屈なままでもいいと思えるならばそのままの生活を繰り返せばいいけれど、ちょうど退屈な生活に飽きてしまったところだったので、新しいことをすぐにでも始めたいと本気で思えた。そういう心持になると、アニメを観る前に気になっていた隣人の話し声がどうでもよくなった。アニメを観る前は本を読んでいたのだが、隣室から野太い声が聞こえて来て、それが気になって気になってアニメを観始めたらこうなった。もはやこれは神が仕組んだものなのだ、と勝手に思い込む。私には残された時間が少ない、その少ない時間でどこまで自分を追い込めるか、どこまで自分を楽しませることが出来るのか。来年の今頃、私の目の前にどんな景色が広がっているのかが楽しみで仕方がない。

 

 

 

佐野衛「書店の棚 本の気配」(2012)を読み始める。

 

 書店にとって理想的なのは、本が本をよび、本が棚をよび、棚が棚をよび、棚が書店をよぶと言う構成を作り上げることだ。読者にとってはその逆をたどればいい。書店に入って棚から棚を見ながら本を手にとり、その本がまた本をよぶ。限りない世界が身近な空間に出現する。
 ところが、書店員のなかには、自分の思いだけで本を選び、それが独自の棚作りということになっているケースが多いようだりこれは、その人の思いの先走りだと思う。独りよがりの配列をしてはいけない。現在ではそれが評判をよんでいるようだが、それでいいのだろうか。
 わたしは、本が本をよぶのであって、その声を聞きながら棚を構成していくことをできるだけ心がけてきた。本に従うことは、大げさにいってみればハイデッガー風に「存在の声を聴く」といったことの実習をしているようなものである。本に霊がこもっているなどということをいっているのではない。それぞれの本の立場に立ってみたときに、その本の存在が素直に自分の意識を呼び覚ましてくれる。単なる紙の集積としての物体を、自分の手で動かせるからといって侮ってはいけない。それらは人類の始まりからの記憶として連綿と伝えられてきたものである。本というものはそうした伝統を背負って伝えられ、現在でもその末裔として続いている人間の知的な営みなのである。

佐野衛「書店の棚 本の気配」p16,17

 

 

 

朝飯:白米、ふりかけ
昼飯:ラーメン
晩飯:ビビンバ

 

79.9kg
23.8%

 

歩数:4,481歩