眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年9月26日(日)

8時15分起床。眠たいけれど、っていう記述をあとどれくらい繰り返せば気が済むのだろうか。最初に目覚めた時、「あー良く寝た」という感想を抱く日は今後の生活に訪れる気がしない。前日の夜によふかししてしまう、ぎりぎりまで一日を貪ってやろうという貧乏根性のせいで寝不足が恒常的に発生している。よふかししてしまうのは、日中、大したことをしていなくて、それを夜になって取り戻そうとする根性のせいなので、今後は計画的に日常を送る、これとこれとこれを日中にこなす、ということ事前に決めて、それを実際にこなしたら、よふかししようとは思わない。そもそも日中にたくさんのことをこなしているので、よふかしするような体力が残っていないだろう。そこまでして人生をしゃぶりつくそうという貧乏根性を根本から叩き直して、大したことが出来なかったけれど万事OK、みたいな安易な考えを出来るようになったら、きっと寝ているときに激しい歯ぎしりをしないで済むだろう。

 

 

朝ご飯を食べて、まだなにかをするという気分になれなくて、椅子に凭れる。なにかする気分になれないときでもちょっとだけなにかをしてみると、案外なにかしてみる気分になるということはなんとなく分かっているけれど、いざその場面に遭遇するとなにかを始めるのが億劫に感じられる。なにかをすることのハードルがぐんぐん上がっていく。別にそれをしなかったことで誰かに咎められるわけではないから、なにもしない状態がずるずると継続される。それでいいと思う。なにをそんなに焦っているのだろうか。

 

 

11時過ぎにようやくなにかをしたい気分になって、久しぶりに映画を観たい気分になって、映画「まともじゃないのは君も一緒」(2021)を観る。今年の初めに映画館で上映されていた映画がもうネット配信されているなんて、わざわざ映画館に行く気が削がれてしまう。そもそもこんな時期に映画館に行こうとは思わないし、映画館で観たいと思う映画がないのだけれど。前半は期待していた感じに話が進んでいき、普通から外れた大野康臣(成田凌)が秋本香住(清原果耶)に普通の指南を受けつつ、恋愛方面のことを教えてもらうという場面がグッと来た。年上の男が年下の女性から教えを請うというシチュエーションはどの時代でもそそられるものがある。それが後半になって、なんだかんだで大野はうまくやってのけ、途中からどうでもいいところに話が逸れてしまって、最後にちゃんちゃんみたいな感じで話がまとめられてしまうのがどうしても気に食わなかった。映画館で観なくてよかったし、家で観ててもちょっと損をした気分になるような映画だったけれど、清原果耶の演技をしっかりと観るのは今作で初めてなので、まあ良しとする。1話から今までずっと録画している「おかえりモネ」、どうしようか。

 

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「まともじゃないのは君も一緒」(2021)(☆☆☆)

 

映画を観終え、昼飯にラーメンを食べる。ちょっとしてから徒歩でスーパーへ行き、食料を調達する。「日清ご褒美ラ王 シビ辛濃厚味噌 2食パック」が売り場から消滅していた。ネットで調べると、Amazonでは単品での販売は終了しているようだった。あれだけ美味しかったのに、あまりにも辛すぎてそこまで売れなかったのだろうか、と邪推してしまう。こんなことになってしまうのなら、30個くらい買っておけば良かった。へたなラーメン屋さんのラーメンより美味しい、これを食べ終えた時の恍惚感をもう味わうことが出来ないのかと思うと無性に切ない気分になった。刺激の少ない日常での数少ない刺激になっていて、私のことをこっそり励ましてくれていたのに。

 

 

一度家に帰り、身支度をしてから再び外出する。今日も今日とて新宿へ繰り出し、本を買うのだ。PayPayのキャンペーンのせいで必要以上に本を買ってしまい、これ本当に必要な本なのだろうかと逡巡してしまうこともあるけれど、きっといつか今日買った本が私の事を救ってくれると淡い期待を抱きながら、今日も本を買う買った。9月に本屋さんを訪れるのは今日が最後になりそうだったので、ここぞとばかりに本を買って買って、買い尽した。ここまで本を買ったら、もう一生、本を買いたいと思わなくなるのではないかということをつい考えてしまうけれど、翌月になったら新刊が出て、なんだかんだでまた本を懲りずに買っているのだ。

 

<購入した本>

橋本倫史「東京の古本屋」
李龍徳「死にたくなったら電話して」
宮内悠介「偶然の聖地」
山下賢二「ガケ書房の頃 完全版 ――そしてホホホ座へ」
石黒達昌「日本SFの臨界点  石黒達昌  冬至草/雪女」
山尾悠子「増補  夢の遠近法  ──初期作品選」
福田恆存「私の幸福論」
二宮フサ「ラ・ロシュフコー箴言集」
國方栄二「エピクテトス 人生談義(上)」
ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」
J・モーティマー・アドラー,V・チャールズ・ドーレン「本を読む本」
現代思想 2021年9月号 特集=<恋愛>の現在 -変わりゆく親密さのかたち-」
池上遼一,稲垣理一郎「トリリオンゲーム(1)(2)」
山本直樹「夕方のおともだち」
松本大洋「青い春」

 

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家に帰り、シャワーと夕飯を済まし、岸政彦「断片的なものの社会学」を読む。一文一文がひりひりする文章で、ぬるま湯に浸かっている私を浴槽から引きはがしてくる。そのまま裸で立ち尽くして、濡れていた体も乾き、風邪が引いてしまいそうな瞬間にふっと肌着を被せてくれるような安心感。もっともっと目の前にあること、目の前にないことを考えたい。私が見てきた世界はこの世界の断片的なものでしかなくて、世界はあまりにも広い。今から全速力で走り回ったとしても世界の事を全て知ることは不可能である。それならば歩いている途中で出会った一つひとつを丁寧に掬い上げて、それについてじっくりと考え、自分なりの結論を出していきたい。世界で起きている事象の大半は答えが存在しない事象で、答えがあるように見せかけているケースもあるけれど、答えは存在しないということを前提に、うんうんうんうんと悩み続けて、その悩む過程で今まで考えたこともなかったことを思いつきたいし、そんな思いつきを一蹴してくれるような他人の本気の考えにも触れたい。私の人生は残り少ない、という仮定で一日一日を生きていかないと、死ぬときに必ず後悔してしまう気がする。と小難しいことを書いてみたけれど、人生なんて楽しんだもの勝ちのスタンスで面倒なものには一切関わらないで、自分の事を気持ちよくさせてくれるものだけに囲まれていたいという気持ちだって嘘ではない。

 

 私たちは私たちの人生に縛り付けられている。私たちは自分の人生をイチから選ぶことができない。なにかとても理不尽ないきさつによって、ある特定の時代の特定の場所に生まれ、さまざまな「不十分さ」をかかえたこの私というものに閉じ込められて、一生を生きるしかない。私たちが生きるしかないこの人生というものは、しばしばとても辛いものである。
 なにかに傷ついたとき、何かに傷つけられたとき、人はまず、黙り込む。ぐっと我慢をして、耐える。あるいは、反射的に怒る。怒鳴ったり、言い返したり、睨んだりする。時には手が出てしまうこともある。
 しかし、笑うこともできる。
 辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、どちらも私は、人間の自由というもの、そのものだと思う。人間の自由は、無限の可能性や、かけがえのない自己実現などといったお題目とは関係がない。それはそういう大きな、勇ましい物語のなかにはない。
 少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。

岸政彦「断片的なものの社会学」p97,98

 

 

 

自分の人生を変容させてくれるのは、いつも自分だけだった。これからもそうだろ?

 

 

朝飯:フルーツグラノーラ
昼飯:ラーメン
晩飯:ビビンバ

 

81.1kg
24.8%

 

歩数:6,610歩