眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年8月15日(日)

お盆休み9日目

 

13時起床。長期休暇最終日の悲壮感はない。悲壮感より、雨が降り続くことによる精神的圧迫、および昨日の真夜中までおよぶ長電話による疲労のほうが目立ったしまっていて、明日、仕事があることが若干の救いになっている。相変わらずここ数日の流行である保坂和志をだらだら読んでて、今日は「遠い触覚」を読んでいるのだが、その本の題材となっているデイヴィッド・リンチに関する作品は一度も観たことがなく、その作品に対する保坂の考えは私の中で虚空を舞う、なんで私は興味のない映画の評論みたいなものを読んでいるのだろうかと不思議に感じる瞬間は何度か訪れるが、保坂の文章のリズムというか、ずんずんと突き進んでいって自分の世界を広げていくそのポジティブな様に惚れ惚れしているのだろう。だろうと表現してみたのはそれが本当なのか分からない、惚れ惚れしていると表現したのは一種の逃げで、本当のところは惚れていない、でもこれは惚れているという表現が一番的確だろうという、思考からの逃げである。私は長時間、うんうんと考え続けることが苦手で、そんな長い時間考えても結論は同じだろうと諦めている節があって、迷うことがあってもさっさと決断する、それを繰り返してきた末の今があることに対して、腰を据えてきちんと考えたほうがいいという感覚は持ち合わせているが、如何せんじっくりと考えられるような時間は今日くらいしかなくなってしまっていて、もうちょっと早くそのことに気づいていけばよかったという後悔、と書いてみたが、後悔なんてしていない、そういう風に書けばこの文章に終わりを迎えさせられることができるだろうという邪念のもと書いてみただけだった。

 

 

きっとバカバカしい笑いが一つもなくなってしまったら、リンチの映画ではなくなっているだろう。バカバカしい笑いはリンチの映画にとって、きっと本質的な何かなのだ、バカバカしい笑いに本質があると言っているのではない。バカバカしい笑いなしには語れない何か、それこそが本質的な何かなのではないか、ということだ。ただ真面目な顔をしていなければ伝わらないことなんてろくなものじゃない、なんてことまでリンチの映画にかこつけて言ってしまったら言いすぎになるが、そういうことでもある。

保坂和志「遠い触覚」p83

 

 

 

ずっと集中して読み続けることができず、15時くらいに布団の上で小休止のつもりが就寝に変化していて、気付くと外は真っ暗、いやカーテンを閉めているので外が明るくても暗くても気づきはしない、ただ時間を確認しただけでそう断言するのは危うさを内包している。18時を過ぎていて、ここまで長時間寝てしまったのは最初の方に書いた理由もあるだろうが、金曜日の栃木遠征も関係しているだろう。行きと帰りで6時間くらいは電車に揺られていた、行きは外が明るいので景色の変化を楽しむことができるのでそこまで時間を感ずることはなかったが、帰りはただひたすら暗闇の中を人気の少ない電車に乗っているだけで、その3時間、寝たら変な駅で途方に暮れてしまうので、ずっと目を開いていて、その疲労回復に充てられた睡眠だと推測できる。だとしても、あまりにも寝すぎてしまっていて、逆に体はぐったりしている、こんなことなら13時に起きたときに外を散歩すればよかった思うわけだが、13時の時点では東京でもそこそこ強い雨が降っていて、ぴしゃぴしゃという音を聞くと瞬時に思い出すのは小学校4年生、ウサギ小屋の世話をしていたときのことだが、それを思い出すと当分は暗い気持ちになってしまうのですぐに思い出すのを諦めた、諦めたというよりも本能的に思考をシャットダウンした。そういうトラウマ的なことは子どものときくらいにしか発生しないのだろうとうっかりしていたが、社会人(こういう表現はあまり好きではない)になり、会社で反りの合わない先輩と働くようになってからもちょこちょこと遭遇するようになる、それの最たるものが3年前の事件であり、その事件による休職である。実はあの休職は一時的な自己防衛であり、休職するほどでもなかったのだが、直属のゴルフ狂いの上司に「1ヶ月はとりあえず休め」と言われて休んだのだが、1週間くらいで家にじっとしていることに飽きて来て、いっそのこと復職して、私を休職まで追い詰めるような真似をした先輩にひとこと、いやもっといろんなことを言ってやりたかったのだが、そんな風になることはなく、1ヶ月まるまる休職させられ、暇な私は家にじっとしていることができなかった、昔からそういう気質のある人間だった。

 

 

寝すぎてしまったからか、それともまだ疲れが残っているからか、軽い眩暈みたいなものに悩まされてて、それは時間の経過とともに和らいでいった。実家にいる兄もどうにも調子が悪いようで、実家のことは母と姉から断片的に聞くことしかできないのだが、一時期に比べれば家族の状況は安定していて、それは母がパートに行かなくなったこと、それと姉が再び働き出してリズムが出来たことがうまく作用しているのだろう。次に実家に帰るのは兄の結婚式のある11月末なので3ヶ月先だが、その頃にはまだコロナが落ち着いているようには考えられず、こんなことなら7月の上旬に決行しておけばよかったのではないかということを一番考えて悩んでいるのは兄だろうし、兄のパートナーであり、私がどうのこうの悩む筋合いはない。兄とは最近会っていない、それはこんな状況だから当然のことであるが、もともと兄と積極的にコミュニケーションを取るような、馴染みのある弟ではなかった。そんなことは前にどこかで書いた気がするし、文章を書くことに飽きたので記述は控える。

 

 

今日はずっと家にいたのだが、家に入るととんと音楽を聴かなくなる。外、散歩しているときとか電車に乗っているとき、または仕事の昼休みに音楽を聴くことが多く、それはそれ以外にすることがないということでもある。家だと椅子に座れば本に囲まれた状態になり、本を読むときに日本語の音楽を聴けるような器用な人間ではない、とか言いながら学生の時分、日本語の音楽を聴きながら勉強してて、勉強している感じはあまりなかったのは今更ながらバカだったなと思う。家にいることが多くなって、音楽の必要性が感じられなくなることもあったが、去年の9月に久しぶりにライブに行って、そこで自分は音楽に生かされているし、私も音楽を生かすためにできることはたくさんしていきたい、という欲望のもとで今も生きているしこれからもきっと生きている。今の状況で婚活をするのはあまりにも阿保だし、そもそも婚活をするテンションが消え去ってしまった、好きという感情が生ずるのは最低でも3ヶ月くらいの時間が要するような人間であり、しかしマッチングアプリを使用しての恋愛というものは3回目のデートで告白するのが暗黙の了解になっているとネットではよく見かける言説である、しかし3回のデートで告白することは論理的に考えると非常にバカバカしいことで、でもそういったバカバカしいことを平気でやってのけるのが婚活という異常な状況である。今年の1月末からちょこちょこ婚活をして、恋人ができたがその子はLGBT+で交際は不可になってしまい、7月からまたちょこちょこ婚活して、現時点での私の思いは、「当分は婚活なんて歪な作業をしたくない、そんなことに30歳という貴重な年代の時間を費やすのはバカバカしい、今はそんな不毛なことに時間を費やすよりも勉強したい本が読みたい」といった感じで、だからこの間マッチングアプリの有料会員を退会した、まだ10日ほど期間が残っていたが、これ以上続けてもバカを見るだけだった。私は誰かと家庭を築けるような、器用な人間ではないような気がしていると薄々気づきながら婚活してて、でも現時点で婚活はうまくいかなくて、当分は婚活はしないので当分はひとりの充実した時間が確約されている、それで安心しているところがあり、じゃあもういっそ結婚は諦めて、ひとりで生きていくことを選べばいいだろ、そうすれば余計な心配事を抱えなくて済むのだが、どこかでまだ結婚に対する盲目的なまでの望みがあって、それを誰かに砕いてほしいと切に願っている。

 

 

24時を過ぎて、あれだけ寝たというのに今、全身を包んでいる眠気が幻想になってしまわないうちに布団に潜りこむのが吉なんだろうけれど、久しぶりに文章を書いていて、若干ではあるけれど保坂の影響を受けている、どこがどのように影響を受けているのかと言うことを仔細に書くのは難しいのだけれど、もしかしたら全然保坂の感じは出ていないのかもしれないけれど、躊躇することなく、的確な表現ではないかもしれないが「ポップ」に文章を書くこと、余計なことで悩んで何も書かないよりも、「ポップ」な感覚で文章を書けているのが非常に嬉しい限りであり、しかし保坂の文章はちょっと飽きた、興味のない人間の作品の事をだらだらと書いているのを読んでて、100ページほど読んでいたのだが、ちょっとしんどいというか、なんで自分はこんなことをしているのだろうかと言う感じが抑えきれなくなったので、明日自分の眼前に迫りくるような小説が読みたい、それは小島信夫とか磯崎憲一郎とか山下澄人であるのだった。夜はまだ続くのである。

 

歩数:未測定