眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年8月14日(土)

お盆休み8日目

 

11時起床。雨の音が寝室まで、寝室と言ってもロフトなのだが、そこまで届いてくるということは、東京でもそこそこ強い雨が降っているのだろう。外に出るのは今回のお盆休みであっても1回だろうか。支払いがコンビニでの支払いしか選択肢がなかったチケットの支払いをするために、ほんのちょっとだけ外に出る。そのついでにスーパーで食材を買って、すぐに家に引きこもる。これで今日と明日は一歩も外に出ないだろう。という安心感を抱えながら、森博嗣の新刊である「諦めの価値」を食い入るように読む。買った日にはそこまでグッと来ない感じであり、それは前日まで保坂和志の自由気儘な文章を読んでいた弊害でもあった。しかし保坂和志が抜けている今日、森博嗣を読んでいると、彼のカチッとした、寸分の狂いもなく文章を積み上げていくのがあまりにも心地よく、それも今回の「諦め」に関する森博嗣の考えは賛同できることが多く、今までもやっとしていて具象化できていなかったことを丁寧に言語化してくれていて、まるで霧の晴れた琵琶湖を眺めているような気分になった。森博嗣は変わらない。変化しない。言っていることが数年前のことと矛盾しない。それは一種の強迫じみた考えなのだろうけれど、自分の考えをほとんど変えることなく、一定の間隔で発信しているのは希望である。いつまで彼が文章を書いてくれるのかは知らないが、彼が文章を書き続ける限り私は彼の文章を読み続けて、その文章をきちんと消化して自分の人生を生きる上での指針にしたいと思っている、そういう風に思える人間はそんなにいないので、彼がいなくなってしまった世界は想像したくないのだけれど、いつかは来るその時のために心の準備はしておいたほうがいいだろう。

 

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今年のお盆休みは読書か音楽だけだった。去年は韓国ドラマを見ていたようだが、今の私は韓国に限らずドラマというものに興味がなくなってしまっていて、それは読み切れないたくさんの本が目の前にある圧迫感から読書をしているということもあるのだが、ドラマだと得られる情報が少なすぎる、そもそもドラマから情報を得ようとするのは阿保のすることで、そういう風にしかドラマの事を考えられないような今の私はドラマを見ても時間の無駄なので、本を読むか音楽を聴くかばかりしている。

 

 

本を読むと言っても小説はそこまで読んでいなくて、保坂和志のよーわからん文章、人によってはきちんと書かれたと感ずる文章なのだろうけれど、その文章で展開されている題材に関して興味を持ったことがない私はどうやら蚊帳の外であるような感じがしてて、これを読んでて私は楽しいと思うのだろうか。しかし読書というものは楽しいからするものではない、そこから得られる生きる歓びみたいなものを感ずるために読むのも読書であり、しかし保坂和志のその文章を読んでいるときに生きる歓びなんてものは感じる瞬間はなく、だからだらだらと彼の文章を読んでいるのは彼に対して失礼だし、自分に対しても失礼だと考えはするのだけれど、独特なリズムで進行する彼の文章はもはや意味をそこからくみ取ろうとしなくても心地よいもので、文章を読むことの本能的な理由はそういうところにあるんじゃないか、とバカバカしいことを考える余裕があるくらい、私は暇を持て余していたということになる。これが仕事に関してたくさんの悩みを持っているような時期だと、そんなことを考える余裕はない、そもそも本を読むような体力が労働後には残されていないのである。営業の時、ちょくちょく先輩から突発的な飲みに誘われることがあり、私はそれが死ぬほど嫌いだった。大好きなロックバンドのライブがあるのに、突発的な飲みのせいでそのライブの一部しか楽しむことの出来なかった、あの日の悲しみは今でもしっかりと残っていて、その人に対する憎しみ、そして誘われたときに「ライブがあるんで、すいません」と断れなかったひ弱な自分に対する腹立ち、そういうものがまだ残っている事実が鬱陶しくて、だからそういう、あとあとまで自分に負のちょっかいをかけてくるような出来事に遭遇したら、後悔しない選択を取ることにしている。まあ、こんな状況だし、先輩は冷たい人ばかりで、お酒を持ち込んでコミュニケーションを円滑にしようと考える人はいないので、去年の3月からそういったイベントが発生したことはない、ただ有給休暇を取るときに、上司から「なんでこの日に休みんだ?」と訊かれるのは鬱陶しい、そういうことを訊くことを禁止するような規則を作ってほしい、上司は私とコミュニケーションを取りたくてそのような不毛なことを訊いてくるのだろうか、そんなことを訊いても毎回私ははぐらかすのだけれど、はぐらかされていることに気づいていない上司は懲りずに休む理由を訊いてくるから、もうこれは休む時にはそういうイベントが発生するんだと諦めたほうがいいのだろう。

 

 

最近このブログを読み始めて、読んでいることを仄めかすようなことを言ってくる人間が周りに居て、そういうのは非常に不愉快なので止めてほしい。この文章はほぼ私だけのために書いている文章で、その文章を自分は読んでいる、お前の日常を掴んでいるんだぞと仄めかす人間はくだらないことしか考えられないような奴なんだな、と心から軽蔑します。

 

 

夢中になって森博嗣の本を読んでいて、22時過ぎに読み終わり、ふとスマホを見ると通知が来ていて、それは地元のグループLINEでグループ通話が始まったことを示していた。そして先輩から「お前も電話に参加しろ!」と脅迫じみたメッセージが届いていて、いつもの私であればそんなメッセージは無視して自分の世界にどっぷりつかるのだけれど、1週間以上も休みが続いていて、ひとりでいることに理由を見つけづらくなっていて、物見遊山でグループ通話に参加した。私以外の3人は全員既婚者、うち2人は子どもがいるので、話は子育ての話に終始した。先輩の子どもはイヤイヤ期にが続いていてしんどい、いつになったらイヤイヤ期から脱することができるのか、もう一人の子どもを育てている後輩に熱心に話しかけていた。結婚すらしていない、ましてや意中の恋人すらいない人間にとって「イヤイヤ期」という話題はあまりにも異次元の世界の話で、そんな話よりかは保坂和志のことを熱心に話したかった。それと、彼らが話している話題の大半は昔の事、学生時代や働き始めたときにみんなで行った旅行の思い出を各々語る、ああそんなことあった、え、そんなことあったっけ、いやいやそれは記憶違いだろ、本当にあったんだってと熱心に話していて、私はそれらの大半を忘れていた。学生の時分の遊びは誰かが主催したイベントに受動的に参加することが多く、参加している瞬間も受動的な瞬間が多く、それのせいかどこそこで何をしたという記憶がすっぽり抜け落ちていた。自分で一から企画した海外旅行は明瞭に覚えていて、いついつにどんなところでどんなことをしたのか、1カ月前のことのように迫ってくるのだが、記憶が明瞭な方がいいのか、記憶が曖昧なほうがいいのか、どっちがいいのかは私にはわからない。6月末まで付き合っていた(ような気がする)女とのデートのプランは私が決めることが多く、そのせいか思い出そうと思えば明瞭に時間をさかのぼることができるのだけれど、本能がその行為を拒否しているせいか、思い出そうとしても記憶に靄がかかる、「それ以上は入っちゃいけませんよ」とハンマーを持ったおじさんが通せんぼをしてて、そうか、私はここに迂闊に入っちゃいけないんだなと、おじさんの主張に抵抗することなくすんなりと現実の世界に帰ってくる。正直な話、2カ月前まで付き合っていた(ような)女のことを今でもたまに思い出す。それは憎しみのような負の感情ではなくて、元気にやっているだろうかという気持ちが先行している。一緒にいる時間は少なかったけれど、その女はいい女、人の悪口をだらだら垂れ流すような、負の感情を周りの人間にぶちまけるような女ではなかった。ひどい別れ方をしたのだけれど、別れる際に私の事を傷つけるようなことは言わなかったので、別れてちょっとの間はしんどかったが、彼女に対する憎しみはほとんどない。いい女、いい人間だったからこそ、自分の性的マイノリティに苦しんでいないかな、自分の悩みを打ち明けられる人は周りにいるかなと心配になる。その女の父親はその女の未来を宣言することが多く、小さい頃から父親にいろいろと仕組まれたので今の職業に就いているし、父親に「そろそろ孫の姿が見たいな」という圧迫を感じるから彼女は一人暮らしを始めたし、まだ若いのに急いて結婚しようとしていたような気がする。もうやめよう、これ以上思い出したら別れたばかりの頃のしんどいことを思い出してしまう......、と一瞬思ったが、今これを書いている現時点ではしんどい感じはなく、多分、その女と別れてから瑠璃さんや美鈴さんといった素敵な女性と、最終的には恋仲にはなれなかったのだけれど、楽しい時間を過ごしたし、自分はそういう素敵な女性に興味を持ってもらえるような人間なんだと自信を取り戻したことが私を支えている。明日で休みが終わる。さすがにちょっと飽きてきたな、でも働き始めたらすぐに休みたくなるのは分かっているんだけれどね。

 

 

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