眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年8月12日(木)

お盆休み6日目

 

9時起床。眠気に耐えられず、すぐに就寝。再び目覚めたのは11時過ぎ。今日から全国では天気が悪くなるそうで、晴れの時にしておきたいことは昨日のうちにしておいたので今日は雨が降っててもいい。外を見ると絶賛曇っているがまだ雨は降っていない。概念として読書を楽しむ。13時過ぎ、図書館に行って予約しておいた本を借りる。急にまたハマりだした保坂和志磯崎憲一郎、その他気になった本を借りる。帰りに本屋で森博嗣の新刊「諦めの価値」を買って、ほくほくした心で帰宅。シャワーを浴びて、遅い昼ご飯を食べている最中に雨が降り出した。向こう1週間くらいは雨が続くだろう。外出する予定は明日のライブ以外にないので、特に関係はない。

 

 

あと3日と半日で今年のお盆休みが終わってしまう。いつもだったら「早く仕事させてくれ」と懇願する時期なのだが、今年のお盆休みはそんなことをさらさら思っていない。あと1週間休みが続いても、体調を崩さない自信がある。それは自分の中に確固とした「休日を楽しむ」メンタルが出来上がっているからだ。他者から与えられる幸福ではなく(厳密にそれは幸福とは呼ばない)、自分のなかから湧き上がってくる幸福を存分に味わっているから、もうこれ以上休みはいらない、職場の人でもいいからコミュニケーションを取りたいとは思わない。そもそも職場の人と最低限のコミュニケーションすら取っていないので、会社に行ったところで「コミュニケーション欲」なるものが存在したとして、それは充足することはない。今回の盆休みがユニゾンのライブが2本あるということで、音楽はユニゾンばかり聴いている。改めて「CIDER ROAD」が素晴らしいアルバムであることを実感しているし、それ以前の音源で既にユニゾンは確立されているということもしみじみ感じる。秋から始まるベジーのツアーが楽しみで仕方がない(現時点では群馬の公演しか当たっていないのだが)。あとは読書に没頭している。3日前から読み始めた保坂和志ばかり読んでいる。普通の人とは異なった視点で物事を見ているのを冷静に伝えてくれるのが痛快で、普段は凝り固まった考えをしがちな私にとっては彼の言葉は良質なマッサージである。解きほぐされた頭で他の本を読んでみると、俯瞰的に文章を読める、その文章を表面的に読むのではなく、どうして著者はそのような文章を書いているのか、そういったところまで考えることができ、以前よりも文章を理解できているような気がする、それは勘違いなのかもしれないが。

 

 

昨日は夜遅くまで寝てしまって、その疲れがまだ残っているのか、16時ー18時に寝てしまう。眠たかったのが解消されて喜ばしいのだが、今日もすんなりと寝られないんじゃないかと戦々恐々としている。

 

 

そういえば、今日は瑠璃さんとお茶をする日であったが、感染が怖いので電話にしましょう、夕方くらいに電話しましょうということになっていた。しかし、昼過ぎに「職場の人がたくさん休んでしまっていて。お昼からヘルプに入っているので、家に帰れるのがいつもとおんなじ感じになるかもです......」とメッセージが来た。そして19時過ぎにまたメッセージが来て、「ばたばたしてたらこんな時間まで働いていました。家に帰れるのが22時過ぎになりそうです......」と来たので、「仕事で疲れていることでしょうし、今度お互いの都合の合う日に電話しましょう」とメッセージを送り、その後は「CIDER ROAD」を中心にユニゾンを聴き倒していたら全身から汗が噴き出してきて、9分、ノンストップではしゃいで久しぶりに気持ちよくなった。再びシャワーを浴び、まだ書けていない日記をぽつぽつと書いている、現在22時5分。瑠璃さんから返信は来ていない。

 

 

 

夜23時過ぎから徐に磯崎憲一郎「終の住処」を読み始める。読み始めてすぐに、「ああ、これは化け物だ」という直感、それは読み進めていくうちに確信に変わっていく。こういう小説を読むために私は日々、小説を読んでいる。この小説を読んでて、私は小説にストーリー性はそこまで求めていない、辻褄の合った話を求めていない、意味不明、どうしてこういう発想が出来るのだろうか、それをうまいこと頭の中から文章に変換できるのか、その営みを仔細に眺めていたい。つまりはこの小説は私が小説に元んている要素が存分に詰まっている、そしてどうしてそこまで面白いのかをよく分かっていない、本当に面白い小説、最高な音楽はどうしてそこまで凄いのかを説明することは出来ない、それは最早神の領域に存在しているような、人間が産み出したものとは到底思えない、なんなんこれ、どうしてこんなものが世界に存在しているのと不思議で仕方がない、でもそういうものが存在しているおかげで私は懲りずに読書を続けるし、音楽を聴き続ける。こういう作品が、どんどん産み出されていくような世の中でありますように。そして私は、明日から磯崎憲一郎の作品をあるぶんだけ読み続けるんだろうな。

 

 

異国の何もない平原で、彼は恐ろしく孤独だったが、しかし考えてみれば孤独など、別にいまに始まったものでもなかった。日本の会社員生活でも、いやそのもっと以前から彼は孤独だった。子供のころも、思春期も、学生時代もじつはたいていひとりぼっちで、自分はそれで平気だったし、好んでそうだったような気もするが、もし本当に人生の大半が孤独なのであれば、それはもはや孤独などと呼ぶのはふさわしくない、確立された、自慢に満ち満ちたむしろ前向きで楽観的な生き方なのかもしれなかった。

磯崎憲一郎「終の住処」p101,102

 

 

いま、お前がどうしても帰国したいというのであれば、お前が自分で決断したという責任をもって、その責任をいつまでも背負うことを覚悟した上ですぐさま帰国すればよい。誰もそれを止めることはしない、翌日の飛行機にでも乗ればよい。しかしこのことだけは分かっておくべきだ、つまりお前がこの案件をあきらめるのであれば、それはお前の一生を失うに等しい、これから先の未来だけではなく、過去におこったすべてを失う、それもお前が経験したことだけではなく、この世界で起こったいっさいの出来事までも失うに等しいのだ、なぜなら、過去においてはただの一日でも、一時間でも、一秒でも、無駄に捨て去られた時間などは存在しないのだから。お前がいまこの瞬間を、この一秒をあきらめることによって、お前は永遠の時間をあきらめることになるのだ。お前ももうすぐ老いて、この世から去る間際になれば実感する日がくるだろうが、気が遠くなるほど長い、ひとりの人間の一生といえども、いまは目の前の一瞬よりも長いということはないのだ。無尽蔵の時間という魅惑的な考え方は、お前の周りにいる多くの無能な人間たちが陥っていながら、自分では気づいてすらいない巧妙な罠であるが、しかし与えられた使命として、お前がそれに抗する覚悟があるのならば、これから死ぬまでお前は戦い続けなければならない、昼も夜も、ただ戦い続けることによってのみ、かろうじてお前はその罠から逃れ、敗北を免れることができる。しかしけっして勝利などを期待してはならない。

磯崎憲一郎「終の住処」p104-106

 

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歩数:未測定