眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年7月18日(日)

3日間もライブが続いているので、起き上がるのがしんどい。うっ、このまま寝てたい、寝かせておくれと体は訴えているが、いつまでもうだうだしてたら人生はすぐに終わってしまうとどこかから声が聞こえてきたので、10時にはなんとか体を起こして日常を始める。

 

 

本当だったら今日、瑠璃さんとお茶をするはずだったが、東京の感染状況が深刻化してきているので、急遽お茶をすることは延期になった(いつお茶するかは未定)。でもせっかくお互いのスケジュールが空いているから、話そう、今までのような音だけではなくて、ビデオ通話しましょうとなって、1時30分から1時間ほど話した。お互いのネット環境が良くないからか、時々映像が乱れたり、音が良く聞こえなくなったりしたが、そこまで支障はなかった。瑠璃さんはめっちゃ緊張しているように感じられた。「話すの、めっちゃ緊張します(汗)」と事前に教えてくれていた通り、彼女は分かりやすいほどに緊張していた。私が黙っていると会話が発生しないから、事前に準備していたことを質問しつつ、会話がそれなりに進み始めたので、そっと傾聴する感じにしたらまた停まってしまったので、咄嗟に思いついたことを質問してみた。咄嗟に考えたことなので、だいぶ粗が目立つ質問が多く、質問しているこちらもびくびくしてたし、応えている瑠璃さんも緊張が増していた。これ、面白いのかな?比べるわけではないけれど、昨日の美鈴さんとのお茶は本当に淀みなく会話が流れていって、心地いい、心地いい会話とはこういうものなのだとしみじみしていたが、逆の、つっかえつっかえでお互いが緊張して、うまくコミュニケーションが取れない会話が今日の瑠璃さんとのビデオ通話だった。どっちが悪いとかではなくて、残念だけれど相性が合わなかったのかな、と哀しくなった。2回目のお茶として予定していた日はどうしますか?と聞いてみると、「感染状況を逐一確認しながら...」とのことだったので、おそらく会うことは無理だろう。だって東京の新規感染者数が減る要因がひとつもないんですから。ビデオ通話を終え、そのあとに瑠璃さんから「4連休はどうするんですか?」とメッセージが来たので、「家でのんびりするつもりです。瑠璃さんはどう過ごされるんですか」と返したら、「せっかくなので地元の友達と会う予定です」って、人と会うんかーい、とか、なんとかかんとか、ごにょごにょ、どうでもいいことを考えてて、それをここに書いたら虚しい気持ちになるので、文章は一旦、ここで締め切ります。

 

 

4日連続ライブの最後のライブとなる、NUMBER GIRLのライブのため、いつぶりか分からないくらい久しぶりに豊洲へ行ってきます。

 

bigpopmonster.hatenadiary.jp

 

 

茫然自失の状態のまま家に帰って、家に着いてからも暫くは物事を進めることができなかった。さっきのあれは、一体何だったんだろう。

 

 

岸政彦と柴崎友香共著の「大阪」(2021)を読み終える。幸せな読書体験だった。岸政彦を読んでいると、森博嗣保坂和志に出会った時の興奮、この人は自分の哲学をしっかりと持っていて、それをあからさまに披瀝する感じではなく、そっと目の前のテーブルに差し出すような感じで、だから読んでいても押しつけがましさは感じないし、それでいて読んでてぐいぐいとその人の考えをもっと知りたくなる、そんな稀有な文筆家である。

 

 

 私たちは自分というものに対して、憧れを持つことができない。自分自身に憧れる、ということは、たんに実際に難しいというだけでなく、どこか「文法的に不可能」なところがある。私たちの脳はおそらく、そういうことが「できない」ようになっているのだろう。自分自身に対して、胸がざわつき、頭のなかが静かになるような、激しい憧れの気持ちを抱くことはできないのだ。これは自分が好きとか嫌いとか、そういうこととは関係がない。もっと単純な話だ。私たちは、いま現在の自分に憧れることは「できない」ように作られているのである。できるとすればそれはせいぜい、過去の自分や未来の自分に対してだろう。
 私たちは、他人になりたいのだと思う。しかしもしそれが実現してしまったら、それは他人ではなくただの自分だ。他人のままで他人になることはできない。なってしまった瞬間にそれは自分になってしまう。
 だから私たちは、この憧れの強い気持ちを、実現することができない。私たちは絶対にーーーそれこそこれは「文法的」な事実なので、「絶対」という言葉を使ってもよいと思うがーーーその気持ちをわがものにすることができないのである。私たちはそういう生き物なのだ。どうしてかはわからない。ただそうなのである。

p218,219より引用

 

 

 自発的に旅行ができない私が、この数年間は仕事のおかげで十以上の国や街に行くことができた。東京も八戸もニューヨークもダブリンも台北もソウルよアラン島もモスクワも、どこも同じように好きだ。どこへ行っても、人の暮らしがあるところは好きだ。道端でほんの数秒だけ隣合った人の存在を感じるのが好きだ。誰もいないベンチや階段にも、人間の感じが残っているのが好きだ。どうにかその日その日を生きている人たちが、歩く道、住む部屋、食べに行く店、立ち寄る本屋、待っているバス停、無数のそれらが集積して、その隙間に自分もいてもいい気がする、そんな場所が好きだ。そこで生きている人のことを考えるのが好きだ。
 生まれた土地がその人に合っているとは限らないし、何歳になっても別の国や街に行ってみたらそここそが最良の場所になるかもしれない。たまたま生まれて育って、自分で選んだわけではないけれど、大阪で暮らしていなければ今のわたしではなかったし、これからどこに行っても、どこで出会った人にも、ここが私の街です、と言うだろう。

p256より引用

 

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明日と明後日と明明後日にお仕事したら、4連休になる。こんなに休みがあっても、することがないんだけれどな。

 

 

7,410歩