眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年6月9日(水)

在宅勤務。昨日もなかなか寝付けなかったので、今日が在宅勤務で助かった。最近はどうも寝付けなくて困っている、土日にたくさん寝てしまったつけもあるし、仕事から帰ってきてうっかり寝てしまったせいもある。もうぐちゃぐちゃなので、そろそろ生活を整えないといけないと思っている。今日は夜まで一切寝ないでおこうと決心して、外を見ると気持ちいいくらいに晴れている。仕事の前に散歩をしたかったが、あと15分で始業なので、大人しく朝飯を食べる。仕事が始まり、してもしなくてもどっちでもいいような仕事をコツコツと進める。在宅勤務のときに進める仕事は自己満足の塊のような仕事で、成果物は一応先輩に提出するが、その仕事が採用されるかどうかは先輩の気分次第で、8割方が採用されずに私のところへ戻ってくる。去年から、「自分で考えて行動する力」というものが会社で持て囃される様になり、先輩は後輩を指導する際に、「まずは自分で考えること。分からなくても1週間は自分で考えろ。締め切りは気にするな。締め切りが遅れて周りに迷惑がかかった際は、俺が責任を取るから」と言うようになったけれど、1週間もうんうんと考えた挙句、「分かりませんでした」と言うと、「なんでもっと早く相談しに来なかったの?」と罵られ、「これで来月の給与はだいぶ減ったね」と憎まれ口を叩かれる。そんな歪な会社なので、どうでもいいことでも完成したらすぐに先輩に報告するし、分からなかったらすぐに相談するようにしている。しかし、私の先輩はなかなかの堅物で、「それ、会社のスローガンに合致していないよね。合致していないと分かってて俺の所に来てるの?」と挑戦者のような顔つきをしているので、そろそろ退社を考えている。転職サイトの登録はまだだが、3年前にしたときよりも求職状況は悪化しているようなので、現在勤めている会社よりも給与や職場環境が優れている会社に転職することは難しいと予め覚悟しておいた方がよさそうである。転職サイトに登録すると、その日のうちに転職会社の担当者から電話がかかって来るので、それに対する覚悟はしておかないといけない。

 


それにしても平日の午前、一人だけの自宅は静かである。音楽をかけると躍り出してしまって仕事にならないので音楽は我慢している。窓を閉め切っていると熱気が室内に充満するので、テレビの横にある窓を開けていて、外の音も入ってくるようになっているのだが、それでも静かである。静かすぎて、このままうっかり寝てしまいそうになり、床に転がってる水をぐびぐびしながらなんとか眠気から遠ざかるようにする。それにしても静かである。私が住んでいるところはザ・住宅街で、ある程度歩かないと店が見当たらないくらいに住宅が密集している。治安はそこまで悪くはなく、でもそれは私が夜遅くに近所をうろうろしていないからで、深夜に外に出たら変な人間がうろうろしているかもしれないし、そんなことはないのかもしれない。どっちでもいいや。

 


昼は辛ラーメンを久しぶりに食べて、その辛さ痺れた。台湾ラーメンよりも辛さはきつく、しかしその辛さは下品なものではないので、食べ終えた後はすっきりした気分になった。

 


午後の仕事も難なく終えて、今日の仕事は終了。お疲れ様でした。

 

 

シャワーと夕飯をそそくさと済ませ、映画「もう終わりにしよう。」(2020)を観る。ポスターの雰囲気や、ネットの評判、物語の冒頭の車のシーンで、「面白いのかな」とちょっぴりウキウキしながら観始めたのだが。う~ん、しんどいね、これ。車での二人の会話に辟易し、ようやく彼の家に着いたと思ったら彼の両親が適度に不気味で、これ、そういう系の映画なんだ...、と落胆した。こういう、神経をキリキリさせながら観なければいけない映画は精神が安定しているときに観るべきもので、若干精神の軸がぶれているときに観るようなものじゃないんだよ。途中からずっと、(もう終わりにしようよ...)と思っていた。ぐにゃぐにゃになりながら進む話、学校で踊り出した際には思わず天を仰いだ。あまりにもしんどいし、疲れていたので、途中途中で寝てしまったのはこれはこれでよかったのかもしれない。ポスターの女性の名前が一度も出てこないこととか、他の不自然なことも含め、この映画はおそらくジェイクの妄想なのだろう。うう、こんな意味不明な、いやきちんと神経を研ぎすませば面白いと感じるぶぶんはあるのかもしれないけれど、観終わった後に、「疲れた...。やっと解放された...」と感じるような映画、別に見たくなかったんだけれどな。こんな映画を観る位なら、「新世紀エヴァンゲリオン」を観れば良かったと後悔した。2時間も時間を無駄にしてしまって、私はいったいどこへ行けばいいのだろうか。

 

 

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「もう終わりにしよう。」(☆☆)

 

ちなみに、この映画の原作となる小説は数年前に購入して(カバーに惹かれた)、読まずじまいでここまで来たんだけれど、もう読まないだろうな。本を買う時は、吟味に吟味を重ねて、買ったら1ヶ月以内に読まなければいけないことを肝に銘じておきます。

 

 

しんどい映画から解放されて、諸々が一段落して、椅子に座ってぼんやりしていた。ふと、今の自分が恋愛に対して前のめりになっていないことに気付いた。つい最近まで、「彼女と別れるかもしれない」だとか、「彼女は恋人がいらない人間なのかもしれない」だとか、そういったことでうんうん悩んでしんどかった。最近まで、会える頻度は未だに2週間に1回だということに納得していなかったし、LINEが死んでいる事にも悲しい気持ちになっていたし、電話を彼女の方からしたいという気配が漂っていなくて虚しい気持ちになっていた。何があったのか正確には検証していないのだが、そういったことで自分の心の波が荒れるようなことがなくなっている。むしろ凪いでいて落ち着き払っている自分がいることにびっくりしている。そんな風になっていられる本当の理由はよく分からないけれど、彼女に対する理解が深まったからかもしれないと考えている。短い期間にたくさんコミュニケーションを取ることで人との親密さを深めていく私に対し、彼女はそういった感じで仲良くなる人間ではなく、もっと長いスパンで人間関係というものを捉えているようだった。彼女と話していると時折、「もっと仲良くなったら旅行したいね」とか、「もっと仲良くなったら素の自分を見せられると思うの」というように、長い時間をかけてのんびりと仲良くなっていくのが彼女のスタイルのようである。その考え方がようやく腑に落ちたというか、心の深い部分でようやく理解できて、急いて彼女と仲良くしようとしなくても別にいいのではないか、もっと長い目で考えればいいのだろう、と思えたのが大きいような気がする。そういう考え方が出来るようになると、毎日密なコミュニケーションを取っていないこと、会った時にいちゃいちゃできないことに対して不安を感じることがなくなり、まだ出会って3カ月、付き合って2カ月だからこんなものなのだろうと心から思えるようになった。これは今後の私の生活に大きな影響を与えることだろう。彼女と付き合い始めてからずっとしんどい思いをしてきたけれど、それが一時的なのかもしれないと考えられるようになり、不安が霧散したことに安心している。他人に対して過剰な期待を寄せるような考えは下品であると思えるようになった、それは先日の夜に貪るように読んでいた森博嗣のエッセィのおかげでもある。他人に対して期待や興味を持たない彼の姿勢を文章からまざまざと感じとり、私が人に執着しすぎていることに気付かせてくれた。

 


今後のことについてちょっとだけ考えてみる。これからも会える頻度は2週間に1回が上限だろうし、LINEは死んだままだろうし、彼女から連絡を求めてくるということもあまりないだろう。でもそれでいいのだ。先に惚れたのは私の方で、彼女と付き合っていられるという状況だけで満足しているし、付き合いたての頃の私が考えていた、「恋人ならもっとたくさんコミュニケーションを取るべきだ」という考えをやんわりと否定できるようになった。別に恋人だからといって四六時中コミュニケーションを取る必要はないし、相手から積極的にコミュニケーションを求められなくてもそれは別に悲しいことではない、人それぞれ対人関係のペースというものがあって、彼女のそれがだいぶのんびりしていることを理解して、急具必要はないと考えられるようになった。そして大きなことだけれど、私はそこまで恋人といちゃいちゃしたいわけでもないんじゃなかった、というところまで考えられるようになった。もし彼女がいちゃいちゃを好み、毎日会いたい会いたい、ちゃんと好きを表現してよ、という子だったら遅かれ早かれ彼氏彼女の関係性に疲れて、その子と別れることになるかもしれない。私は一人で過ごす時間が他人と一緒に過ごす時間よりも(おそらく)大好きで、出来ることならその時間が長く続けばいいと思っている人間である。今日だって誰とも話すことはなかったけれど、それはそれは快適な一日だった。誰かとコミュニケーションを取るということは、程度の差こそあれ自分の意見を隠すことである。本当の自分は一般的な人間から見たらそれはそれは異端で、その自分を他人と会話しているときに出したらぎょっとされ、距離を取られることだろう。話がだいぶ逸れてしまったので元に戻すが、彼女との関係はゆっくりと深めていけばいい。焦ることはない。30歳になったところでそこまで結婚を焦る必要はない。そもそもの話なんだけれど、私は本当に結婚がしたいのかな?

 

 

 

女の園の星」第2巻を読む。和山やまの作品は単行本で出ているのは全部読んでいて、特に現在連載されている「女の園の星」が狂おしいほどに好きだ。星先生の軽く狂った感じが好きだし、小林先生の、一見爽やかそうなのだけれどこれまた狂った感じがたまらない。物語に出てくる女子高生の、現実にいそうでいなさそうな、でもよく考えたらやっぱりいそうな感じ。女子高だったらこんな感じなのかな、とか、星先生、小林先生と女子高生の絡みが上手いこと描かれていて、一話読むたびに一話減っていくのが悲しく感じられる。この漫画では衝撃的なことや、悲しくて打ちひしがれるようなこと、ワクワクするような冒険が描かれているわけではない。とある街にあるとある高校で働く先生と、その高校に通う女子高生の日常を描いているだけなのに、どうしてこうも読んでいるときニヤニヤしてしまうのだろう。2巻を読み終わった感想は、「最高の漫画だな、これ」だったし、早く3巻が出るのを待ち侘びている私がいた。漫画に対してこれほどまでに焦がれる感情はあまり抱いたことがなくて、だからこそこの漫画は本当に面白いのだ、これからも続巻が順調に出版されることを強く願っている。

 

 


川上未映子「夏物語」を一昨日くらいから読んでいる。去年のどこかでも読んだのだが、一部を読み終わってしんどくて、そのままにしていた。最初から読み始めて、覚えている内容を再度読み返すのはあまり心地良い作業ではないのだけれど、「夏物語」は読んでて再度、物語に引き込まれた。読んでて辛くなるお話だけれど、このお話を読み終えた先に私は新しい世界を見つけられるような気がしている。多分、今年読んだ本の中で一番大好きな本になるだろう。

 

巻子にとっては何の問題もない普通の話をしただけなのに、それにたいして言いかたが少し強くなってしまったかもしれないと思った。そして、それと同時に私は自分で使った趣味という言葉に後味の悪さのようなものを感じていた。傷ついたと言ってもいいかもしれなかった。

 たしかに自分の書いているものが小説といえるのかどうかも覚束ない。それは本当だった。でもそれと同時に自分は、やっぱり小説を書いているのだという気持ちもあった。それは強い気持ちだった。はたからみれば何の意味もないことかもしれない。いつまでやっても誰にも何の意味ももたらさない行為なのかもしれない。でも、わたしだけはわたしのやっていることに、その言葉を使うべきじゃなかったのではないだろうか。とりかえしのつかないことを口にしてしまったような気持ちになった。

 小説を書くのは楽しい。いや、楽しいというのとは違う。そんな話じゃないと思う。これが自分の一生の仕事なんだと思っている。わたしにはこれしかないのだと強く思う気持ちがある。もし自分に物を書く才能というものがないのだとしても、誰にも求められることはないのだとしても、そう思うことを私はどうしてもやめることができないでいる。

 運と努力と才能が、ときとして見わけがつかないものであることもわかっている。それに結局のところーこの何でもないちっぽけな自分がただ生きて死んでいくだけの出来事にすぎないのだから、小説を書こうが書くまいが、認められようが認められまいが、本当のところは何も大したことではないのだということもわかっている。こんなに無数に本が存在する世界にたった一冊、たった一冊ー自分の署名のついた本を差しだすことがたとえできなくても、そりは悲しむことでも悔しく思うことでもないのだと。それはわかっているつもりなのだ。

 


(中略)

 


 こんなふうにつぎつぎにやってくるものと、わたしが小説を書きたいと思うことにどんな関係があるのかはわからない。わたしが書きたいと思う小説とわたしのこうした感傷は遠くにあるもののはずなのに、もう駄目かもしれない、私には文章なんて書けないのだと思うとき、いつも頭に浮かんでくるのだ。もしかしたら、こんなことを思い出すようなわたしだからいつまでたっても駄目なのかもしれない。わからない。でも、そのわからなさより、コミばあもいなくなって、母もいなくなって、巻子と緑子のふたりを残して東京までやってきたわたしが十年たっても何も結果を出せないでいること、ふたりの暮らしをちっとも楽にさせてやれないことを思うと、どうしようもなく胸が痛む。そんな自分が恥ずかしい情けないし、本当のことを言えば、怖くて、どうしていいのかがわからなくなる。

川上未映子「夏物語」p103-105より引用

 

 

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