眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2021年6月7日(月)

在宅勤務。昨日のライブで体がへたっていたので、在宅勤務でちょうど良かった。昨日からエアコンを稼働させている。部屋の湿気が凄いので、26度の除湿を効かせている。とても過ごしやすいけれど、6月の前半からエアコンのある生活に慣れてしまうと、8月の夏本番の暑さに耐えられるかどうかが心配になってくる。去年、夏をどのように乗り越えたのかの記憶が一切ない。外出しているときはマスクを常時つけていたので、普段の夏よりも過酷な夏だったはずなのに、去年の夏の記憶がない。嫌な思い出はすぐに忘れてしまうというあれだろうか。去年の日記をいちいち読み返すのも面倒なので、このままにしておく。でも去年は7月に入ってから、梅雨が明けた頃にエアコンを動かしていたような気がするので、今年の私は去年に比べるとだいぶ弱体化している気がする。一昨年はまだコロナの影響がなかったのでせっせとジムに通って適度な運動をしていた。去年はその運動の貯金が残っていたので体力とかが今年に比べるとまだあったほうだから、夏を乗り越えられたのかもしれないし、本当のところはどうなのか知らない、どうでもいい。コロナが世間を騒がせ始めた頃からジムに通うのはやめたので、体の弱体化は深刻さを増している。意識の奥底で(このままだとまずい!)と思っているのか、一日中家に入るような日は外に出て、ちょっとでも散歩をしたがる心になっている。でもその散歩もせいぜい30分ほどの軽度なものだし、それだけの運動をしたところで体が強靭化するわけでもない。本格的に運動したい、でもジムに通うことは出来ない、それならば家でできる筋トレを探して、毎日こまめに体を動かしたほうがいいんじゃない、今年の夏は暑さに負けないためにそれくらいの努力はしたほうがいいんじゃない、と思っている。多分思っているだけで今年も運動しないだろうな、と薄々勘付いている。よっぽどのことが無い限り、そういった面倒なことから逃げたがる人間であることは、約30年の人生で理解しているので。

 

 

私の会社の在宅勤務、特に私が所属している部署の在宅勤務は緩いので、まあ別に気を張らなくてもいいだろう。それでも出社したときの私が少しでも楽になれるよう、最低限の仕事はしているつもりである。今の部署での仕事はまだまだ紙ベースだし、報告する際は面と向かってという謎のルールがあるので、在宅勤務をフル稼働させることは難しい。一応うちの会社も在宅勤務をしているんですよ、というポーズを見せたいのだろう。その辺についてはこれ以上文章を書くほどの興味がないし、多分書いても虚無が広がるだけなので、書きません。

 

 

昨日は結局午前2時30分くらいまで寝付けず、午前中はぼおっとしていた。少しくらい仮眠を取ってもよかったけれど、そこでまた存分に寝てしまうと今日の夜が寝られなくなり......、同じことを繰り返すので午前中は眠るのは耐えた。そもそも仕事の時間なので寝ることは許されない。午前の部が終わり、家にこのまま居たら寝てしまうという危機感があったので急いで外に出た。今日から当分は晴れが続くようだ。気持ちいい晴天の下を歩いているとき、若干の気分の悪さを感じた。先週の木曜日に体調を崩したのがまだ完治していなくて、昨日ライブではしゃいでしまったから、体はまだまだ油断ならないほどの危険を孕んでいるということなのだろう。外を歩くのは気持ちいいのだが、20分ほど歩いていると背中が徐々に汗ばんできて、真夏になったら着替えを数着持ち合わせていないとまずいことになるだろう。真夏に彼女と外でデートをすることがあって、もしぐっしょりと汗をかいた私を見たら彼女はなんと思うのだろう。それまで彼女との関係が続いている保証はいっさないけれど。今までデートしたときはまだ肌寒さが残る気候だったのでTシャツの上にジャケットなどを羽織っていたが、これからはTシャツ一枚で勝負していかなければいけなくなってくるので、そろそろUネックのTシャツを着れるようになっておかないといけないと痛感している。大学生のときはUネックのTシャツを着てはしゃいでいたが、どのタイミングでUネックのTシャツが着られなくなったのか、その記憶が曖昧である。首がしめられるのが嫌だという理由で今はVネックのTシャツしか着られていない。ポロシャツもしんどい。しかし、全てのVネックTシャツが着られるわけでもない。何の話をしているのか。このへんでやめておく。

 

 

散歩を終えて、久しぶりにたらこマヨパスタを食べて、30分ほど休みが残っていたので仮眠を取った。もう限界だった。これ以上眠気を抱えていたら発狂してしまいそうだった。ふっと気付くとアラームが鳴ってて、すごく体が軽くなっていた。午後の仕事が始まる。メールの着信音(ちゃりん)が鳴り、上司からメールが届いていることに気付く。上司からメールが届くことに対して軽いトラウマがあるので、すぐにメールを開封したら私だけ宛のメールではなくてほっとした。それは在宅勤務の期間を延長するので、どの日に在宅勤務をしたいか希望を送ってほしいという旨のメールだった。何故今更その趣旨のメールを送ってくるのかと苛立ちを覚えた。緊急事態宣言が6月20まで延長されたのはとうの昔に分かっていた筈なのに、なぜそんなぎりぎりになって、という苛立ちと、ぎりぎりになってしかそういうことを指示できない上層部に対する諦観がすごくて、もうどうでもよかった、勝手にしてくれという気分になった。在宅勤務の予定は今週までしか決まっていなくて、メールでは7月の中盤まで予定を入れてほしい、その全てが叶えられるわけではないけれどね苦笑、とのことだった。コロナ関連のニュースを積極的に読まなくなったので、全国規模で、また東京の規模ではコロナの新規感染者数が減っているのか増えているのか、重症者や死者の数の推移はどうなっているのか、病床はどれほど逼迫しているのかよく知らなかった。でも、まだまだ予断は許されない状況であることはなんとなく伝わってくるので、まあ在宅勤務の期間が延長されるのはいいことなんじゃないでしょうかとは思った。ただ、在宅勤務でも出社した際とほとんど変わらない質で仕事ができるように、仕事の仕方を変化させたり、設備の充実化を計ったりしているわけではないので、ただただポーズの在宅勤務であることには変わりはない。上司のコロナに対する認識も非常に甘くて、人間が密集しているように見える場所で働いてる人に対して、「ちょっと密集しているんじゃないの。もっと離れなさいよ」と口頭で伝える神経、もし離れて仕事をする際にどれだけ仕事の生産性が減退するのか、在宅勤務している人のデスクに場所を移し替えて仕事をするようにと言うけれど、そのデスクはきちんと消毒されているのか云々についていろいろ物申したいことがあるけれど、会社の人間と不必要に関わりを持ちたくないので、何も言わないでいるし、今後も多分何も言わない。我慢できなくなったら、会社をすっと辞めることだろう。

 

 

今日はどうでもいいことをだらだら書いてしまう。人恋しいのだろう。午後もそれなりに仕事をして、定時になったら上司にメールを飛ばしてすぐにパソコンの電源を消した。外の空気が吸いたくなったので、外に出て、散歩がてら近所のスーパーへ寄った。人はそこそこいたが、会社帰りの人たちがまだいなくて、レジは多くて2組待ちという感じだった。最近はどうにもお腹が空いてしまうようで、太ると分かっているけれどポテチをついつい食べてしまう。家にはもうポテチがなくなってしまったので、まとめて買っておこう、でも太るけれどなあ、とかなんとかかんとかぐだぐだ考えていたけれど、結局6つも買った。固いのと、バターのを買って、それで勢いがついた私は牛乳、豆腐、水、ドレッシング、サラダ、はんぺんを買った。4,000円弱もした。そこまで大した商品を買っているわけではないのに4,000円弱もするなんて、金銭感覚をもっときつくしていかないといけないと思う。音楽にうつつを抜かして、じゃんじゃんライブに行っている場合じゃない。読むかもしれないから、という理由でじゃんじゃか本を買っている場合ではない。幸い、ギャンブルや酒、煙草には一切興味がないので、その辺りで無駄金を使うことはない。けれど趣味に好きなだけお金を使っていると、そこまでお金が貯まるわけでもなく、あと少しで30歳になるのに、貯金がこれだけでは寂しくないか、と空しくなる。ただ、独身のうちにお金を使っておいたほうが良いような気がしていて、もし結婚して相方に私の貯金をがしっと握られてしまったら、今まで頑張って働いた対価としてのお金が自由に使えなくなって、言いようのない虚しさに駆られるんじゃないか。そんなのは昭和や平成の時代の夫婦のやり方で、令和は違うんだよ、そもそも時代に関係なくそれは家庭によって違うんだよという言論もあるかもしれないが、でももし結婚して私の貯金を握られ、好きなようにお金を使えなくなるような未来が待っているとしたら、そんなことになるくらいだったら独身の今のうちに、好きなものに好きなだけお金を使ったほうが後悔はないんじゃないか。と考えてみたが、当面、誰かと近々結婚する予定がないので、こんなことをうだうだ考えていることが急に虚しくなって来て、家に帰ると少しの間だけ丸くなった。

 

 

丸くなって気分が落ち着いたので、先ほど買ったサラダを食べたり、白米に卵と納豆をかけたのを黙々と食べながらテレビでサッカーを観ていた。ワールドカップの予選で、名前は忘れたけれど中東のどこかの国と日本が対戦していた。スポーツを観ることに対して全然興味が湧かないけれど、せせこまった心だったのでそれを観ていた。他のテレビ局ではまがまがしいほどの存在感でテロップが映し出されたり、大きな効果音で視聴者の気を引こうとしたり、とにかくうるさかった。サッカー中継は男たちが黙々とボールを蹴る、それについて男が説明するだけの簡素な番組で、それくらい静かな方がその時の私には都合がよかった。すぐに夕飯を食べ終え、テレビを消して、さてどうしようかと頭を悩ませる。午後8時。寝るまでまだ時間はある。けれど今日はどうも精神の調子があまりよろしくないし、身体の調子もあまりよろしくなかった。そろそろ始まるであろう梅雨という憂鬱な季節に合わせて、私の心身も低空飛行をしようという目論見なのだろうか。普段だったらネットを見て適当に気晴らしするが、ネットの口調の強い、刺激的なコンテンツに触れて心が萎縮してしまうのを怖れ、本を読むことにした。

 

 

この間訪れた図書館で借りた田辺聖子の「言い寄る」(1974年)という本で、その本を借りようと思ったのは急に恋愛小説を読みたくなったからだった。今までの人生で、積極的に恋愛小説を読みたいと思うことはなく、それは、「他人のいちゃいちゃを読んで何が楽しい」といった理由だった。小説で好きなジャンルは特になく、でもSFはその物語でしか出てこないような単語をわざわざ覚えるのが億劫なので、出来る限り避けていた。他人から、「どんなジャンルの本がお好きですか?」とたまに訊かれるが、「特にないですね」とつまらない返答をしてしまう。それほどにどんなジャンルの本が好きだとかそういった拘りはなく、ジャンルよりはとある小説家が好きだからその小説家の本を読んでいることが往々にしてあった。あらゆるジャンルを書いている小説家だとジャンルの幅が広がるかもしれないけれど、私が好んで読んでいる小説家はそこまでジャンルの幅が広いわけではないので、私の読書の幅もそこまで広いわけではない。別に幅が広いからといって人生で有利な立ち位置に立てるわけでもなく、それはもう個人個人の自由だった。話が逸れたが、恋愛小説をこの齢になって急に読みたくなったのは、現在進行形で私が恋愛をしているからだった。進行形なのかどうかはちょっと怪しくなってきているが。昨日、彼女から「体調が良くなったんだ。今日もゆっくりしてね」と優しいLINEが来てて、夜遅くに「今日もごろごろしたらだいぶ回復した」と送った。今日、それに対する返信はなかった。仕事がしんどいのだろうか。ぎりぎりのくたくたになるまで働いて、そのまま職場から家までまっすぐ家に帰って、「人間らしい生活(彼女談)」を送ることなく、冷蔵庫の奥にしまいこまれている豆腐とヨーグルトで夕飯を済ませ、お風呂もシャワーだけにして、あとはばたんきゅーと布団に倒れこんで、そのまま朝まで直行なのだろうか。お疲れ様です。生存証明だけでも送ってほしかった。「う」とか「あ」とか、なんでもいいからメッセージを送って欲しかった。そんなことを彼女に、まだ2カ月とちょっとしか付き合っていない彼女に求めるのは、仕事でくたくたでぎりぎりで、できることなら今すぐ仕事をやめてのんびりしたい女性に求めるのは酷なのだろうか。

 

 

 

~~~~~~ メンタルがやられた~~~~~~ 

 

 

 

自分の考えていることを文章に変換して、一旦私の中から吐き出せば少しは楽になれるかなと思っていたが、そんなことは全然なく、むしろそのことばかり考え始めてしまって、もうちょっとどうしたらいいのか分からないくらいに胸が締め付けられるようだった。苦しい、誰か助けてくれ......。

 

 

本を読んでも音楽を聴いても一向に心が落ち着かなかった。これはもう一旦受け入れるしかない、受け入れよう、何をそんなに悩んでいるんだ、そんな深刻に考え込まなくてもいい、夜だからこんな風に暗く考えてしまうんだ。こんなときはさっさと寝てしまって、明日は仕事に集中して、そうして疲れ果ててすぐに寝よう。そうしよう。そうしよう。でもまだ寝るような時間じゃないし、布団に入っても多分寝られないだろうな。そうすると布団のなかでぐちぐちと悩み始める。どうしたらいいんだ。うっ、うっ。と苦しんでいて、そういえば先週放送された「大豆田とわ子と三人の元夫」をまだ観ていなかったので、それを観る。

 

 

「結婚ってやっぱり良くないものですか?」
「えっ?そうは思わないですけど」
「だってあなたは独りで生きていけるでしょ?」
「う~ん、どうかな。前はそう思ってました。
1人で焼き肉に行けるし、1人で温泉だって行けるし、私は独りでも大丈夫だって」
「今は違うんですか?」
「違わないです。全然大きいことは違わない。
でも小さなことかな。小さなことがちょっと疲れるのかな。
自分で部屋の電気をつける。自分で選んで音楽をかける。自分でエアコンをつける。
まあ 小さいことなんですけどね。
ちょっとボタンを押すだけのことにちょっと疲れる感じ。
そういうときに、あっ、意外と私、独りで生きるのがめんどくさいほうなのかもなって思います。
何にもしてないのに明るくして音楽が鳴ってて、温かいってのに憧れます」
「また結婚したいって思うんですか?」
「思うのかな」

 「大豆田とわ子と三人の元夫」8話より

 

 

とわ子と小鳥遊のやり取りはいちいち素晴らしいのだけれど、今回のこのぶぶんは観てて痺れた。精神がくたびれているときに重たい恋愛ものを見たらよりくたびれたかもしれないけれど、「大豆田とわ子と三人の元夫」の、うっかりしたら重たくなりそうなところをぐっと堪え、軽快に前に進んでいく感じが、観てて救われるな、と今日思った。あと2話で終わってしまうのがこの上なく寂しい。これを観終わったら、録画が終わるであろう「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」を観よう、精神状態が健全であれば。

 

 

ようやく精神状態が落ち着いて、直近でまだ書けていないぶんの日記を適当に書き散らかして、ユニゾンの4thと5thを聴いて勝手に心を癒されていた。 

 

 

24時になった。寝よう。寝れない。暫く寝る努力をしてみたが寝れなかったので、小説をいくつか読んで、その後に森博嗣のエッセィを読んだ。7年前だかに出版されたもので、何度も読んでいるのだけれど、久しぶりに読んだかつ精神がへたっていたから、いくつかの言葉が存分に響いて心地よかった。 

 

 

 友達とか友情というものに期待するなと、というのは繰り返し書いているが、この頃は家族、親子、それから夫婦みたいな関係にも、とにかく期待しすぎている人たちが沢山いるようだ。僕は今の奥様と三十年以上一緒に暮らしているのだが、はっきり言って、まったく考えが違うし、趣味も合わないし、言う事は理解してもらえないし、あまり親しくもない。それでも、かなりの部分で助けてもらっていて、感謝はしている。夫婦というのは血のつながりのない他人だし、それに異性でもある。こういう異質な人間が身近にいるだけで、学ぶことが多い。彼女と結婚して、我慢をした方が良い場合が多いことを学んだし、どんなに話し合っても、今一歩のところで言葉が通じないことも知った。人間というのは、そういうものなのだ。
 ところが、もう一心同体のようにラブラブになるのが結婚の理想だと勘違いしている人たちが、特に若者に多い。そういう伴侶に出会えれば幸せになれる、と信じている。ほとんどそれが人生の目標になっている人さえいる。そういう人は、たぶん、理想の恋人と結婚できたとしても、そのうち幻滅して別れてしまうだろう。

森博嗣「つぼねのカトリーヌ」p86より引用

 

 

 

森博嗣の文章をだいぶ飲み込んで冷静になった。他人に対して過剰に期待していたこと、 自分の本当の気持ちを見て見ぬふりをしてきたこと、そして人生を楽しく生きるためにどうすればいいのかということ。緊張していた心身がぐっと解され、なんだか明日から軽快に生きていけるような、そんな気がしている。人生は深刻に捉えるものではないし、生きている間に知らず知らず植えつけられた考えに縛られることもないのだった。

 

 

3,608歩