眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

今日も文章を書きたい

文章を書くのは非常に難しい。文章を書くうえで一番難しいのは「何を書くか」を決めることで、これさえ決まればあとは手が勝手に動いてくれるので(私の場合は)、それに任せればいいだけである。「何を書けばいいのか」を誰かが教えてくれるわけではない。自分で一から考えなければならない。ただ、これには裏道があって、有名な人が書いている優れた文章からテーマを抽出して、それを利用すれば恰も自分が一から書いたように見えるだろう。しかしそんなことをしてまで文章を書いても、多分面白くないだろう。どのようなことを書くのかを自分で一から考えたからこそ、そのあとの文章を書き綴る作業が有益なものになるし、文章を書き終えた時の達成感は何物にも代えがたい。私はたくさんの時間を使って、「何を書くのか」を考える。考えても考えても一向にアイデアが思い浮かばないときもある。そんなときは一度考えることから離れてみて、全く関係のないことをしてみる。例えば散歩して花を眺めたり、部屋の掃除をしたりしてみる。考えをとめてしまったように見えるかもしれないけれど、こういうことをしている最中にも頭では勝手に考えてくれていて、ふと、「こういったことを書いたら面白いかもしれない」というところにぶつかって、そこからするすると文章が書けることもある。そんなときはお膳立てされた娯楽を楽しむよりも圧倒的な楽しさが私を包む、「もっともっと文章を書きたい」と素直に思える。

 


私が毎日のように文章を書くようになったのは、小学校6年生のときの担任の先生の影響である。先生は受け持っている生徒たちに、「1学期だけ日記を書いてごらん」と進めてくれた。当時は文章を進んで書くという習慣がなかったから、日記を毎日書かなければならないことは苦痛だった。しかし、何か月も日記を書いてみると自分の文章にも味があることが分かり、それからは夢中になって日記を書くようになった。先生が受け持っていた生徒は40人以上いて、彼らの日記を毎日読み、最後にお茶目なコメントを残してくれた。先生が読んでくれているから書きたい、という動機が私が文章を書きたいと思えた動機で、私の原体験でもある。先生に出会わなかったら私は文章を書くことなく日々を過ごしていたのだろうし、それは今の自分からしたらちょっぴり寂しい人生だろうな、とも思う。担任だった先生はその後体調を崩してしまい、成人式の時に一度だけ会ったのだけれど元気がなく、なんだか寂しい気分になった。あれから10年近くが経ってしまったけれど、今は元気に暮らしているだろうか。遠くにいる先生にいつか届けばいいな、という気持ちを大事に抱えながらき今日も文章を書いている。