眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2020年12月24日(木)

「祭囃子のその後で 昂ったままの人 泣き出してしまう人
多分同じだろう でも言葉にしようものなら稚拙が極まれり」

 

なぜこんなにも眠たいのか。十分な睡眠を取れている、とは言い切れないけれど、ちょっともうこれは病気なのではないか、と思われるほどの眠気に襲われる毎日。安定剤を服用しているからこんなにも眠たいのだ、と決めつけるのは簡単だけれど、「じゃあ、どうしたらいいのか?」の問いに誰も答えてくれない。最近は仕事から帰ってきて、夕飯を食べ、読書をしているとうとうとして......気付いたら2,3時間寝ていることがあって、本当に辛い。寝ているくせにそこまで眠気がおさまっていないのがしんどい。中途半端な体勢で寝ているから十分に疲れが取れていない、こんなことなら1階に寝具を置いて、じっくりと寝てしまおうか。そんなことを考えながら、でもそんなことをする勇気もなくずるずると日常を食い潰していくのだろうな、という不安でいっぱいだった。もう私は不安とか焦燥とかでいっぱいいっぱいで、まっすぐに歩けているかどうか自信がないのだ。在宅だから8時まで寝て、でもまだまだ眠気の雰囲気は身体中を取り囲んでいて、仕事の時間になってもちっとも眠たさは晴れなかった。外から聞こえる「どどどどど」という音くらいしか音がない、一人きりの世界でパソコンに向き合っていると、眠たさが酷いのだ。誰かから電話がかかってくることもなく、不自由な環境で仕事をしていると生きていることが面倒に思えてくる。ううう、と唸りながら見上げる天井、ロフトがあるせいで天井が高く、そのせいで暖房をつけてもちっとも暖かくならない不便な家だった。ほぼ「無」の状態で仕事に向き合うのはいつだって一人で、次第に大きくなっていく「どどどどど」に辟易しながら、自分の将来に思いを馳せる。将来、既に私は29歳で、将来などというものはあまりないような気分になっている。小学生の頃は自由に歩き回っていた遊歩道も、今となっては窮屈で汚い道になっていて、私はこんなちっぽけな世界で満足していたのか、こんな世界で満足できていたことは一種の幸せであり、お金を費やして得る幸せなどすぐに消え去ってしまうのだった。コロナが発生してから人は人との接触を最小限にしているらしいけれど、私は元から人との接触は最小限に抑えてきたので、コロナ以前以後でそこまで生活が激変することはなかった。ネットのくだらない言説が余計に喧しく感じられるくらいで、そんなものはネットから離れれば影響を被ることはなかった。テレビもつけず、聴き馴染んでいる音楽だけを頼りにしていたら、私はいつのまにか圧倒的に一人になっていた。居心地のいい一人と、たまらなく寂しい一人があって、今年の私は「居心地が良すぎる一人」を満喫していた。誰からも干渉されずに生きるのは非常に楽で、「結婚しろ、子どもを作れ」と急かしてくる世間も周りにはいなくて、兄は結婚し、同期も結婚し、私は一人でこの家で老いていく。たくさんの本や映画を飲み込んで、年相応になっていくのはなんだか愉快で、そのまま孤独を感じずにいられたらどれだけ幸せだろうか。そんな私でも年に数回はどうしようもないほどの孤独に苛まれることがあり、そういうときは安定剤が上手く作用していないか、不安定な天気が続いているか、そんなくらいなのでそこまで気にしないようにしている。これを読めば落ち着きを得られる、という本を何冊か本棚に差しておき、いざ不安な気分になったら貪るようにそれらを読み、大好きな音楽を聴いて躍っていたらいずれはしんどさから解放される。私は何度もそうやってしんどさを乗り越えてきた。今年は比較的少ないしんどさでおさまった、それは今の仕事がイージーモードで、営業の時みたいに人格否定をされることがなくなったからだろう。職場には「不干渉」という壁がたくさん立っていて、それを動かそうと躍起になるものはおらず、小さなコミュニティの中できゃっきゃしている者の声くらいしか聞こえてこない。それは上司がそのような環境を求めたから出来たものであって、ちょっとでも話が長引けば近づいてきて、じっと私のことを見る、見るというより見つめてくるという表現がしっくりくる。一体何を書いているのだろう。

 


昼休みになり、昼ごはんにアラビアータパスタを食べて(ちょっと甘かった)、ちょっとだけうたた寝して、昼休みが終わった。午後の部ものんびりとした時間が流れていた。外からは相変わらず「どっどっど」という音が聞こえてきたが、耳が慣れたのかそこまで気になることはなかった。目はパソコンのディスプレイ、手はキーボードの上に置かれていたが、意識は完全に自室にはいなくて、それがしばらく続いても特に支障は来さない、それが在宅勤務だった。上司から「たくさん食べろ」とメールが来ていて、これはメシハラにあたるのではないか、と思ったが、眠たすぎてもうどうでもよくなっていた。眠たいのをどうにかしなければいけないのが私にとっての2021年の目標だった。勉強をそろそろしなければいけないのだけれど、まずは眠たさをどうにかしなければならないようだった。定時になって、パソコンをそっと閉じて、「生活」に戻った。そういえばずっと家の中にいたことに気付き、ちょっとだけ外を散歩した。今日はそこまで寒い日ではなくて、ジャンパーを羽織らなくても居心地よく歩ける気温だった。ちょっとだけ家の周りを歩いて、家に戻ってしゃんしゃんと夕飯を作った。親から託された「一幻」という海老ラーメンのインスタントバージョンだった。美味しかったが、まあインスタントラーメンの限界を感じた。夕飯を食べ終えると、さっそく読書に取り掛かった。あと1話しか残っていない町屋良平「ふたりでちょうど200%」 を読んだ。読み終わった。今まで読んだ町屋良平のなかで一番体に入ってこなかったし、二回も読みたいと思えるような内容ではなかった。町屋良平、どうした?早く素晴らしい新作を出して、おっと驚くような体験がしたかった。

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続いて吉田篤弘「なにごともなく、晴天。」を読み始める。吉田篤弘は存在は知っているし著作もいくつか持っているが、本を読むのは初めてだった。町屋良平がつっかえつっかえの読書だったので、吉田篤弘のあまりにもストレートなそれに拍子抜けした。順番を逆にして読めばよかったか。あまりにも簡単すぎて、登場人物の考えていることもするすると身体に馴染んでいって、それではちょっとつまらない気分になった。50ページほど読んで飽きた、次に増田みず子「小説」を読み始めた。難しすぎず、簡単すぎない小説で、これは著者の実体験をそのまま文章に落とし込んだのだろうな、と直感で思った。60を過ぎる主人公、両親とはうまくいかなかったこと、自分をうまく表に出せないことをあらゆる視点から描いていて、幾つか読んでいると(鬱陶しいな)と思う反面、主人公の鬱屈とした思いがすっと身体に馴染んでいくのが愉快だった。今作はとても久しぶりに出された作品だそうで、そんなブランクは感じられないくらいするすると文章が紡がれていた。100ページほど読んで文章を追っかけるのに疲れると、ちょっとだけのつもりで床に寝そべったら、案の定寝てしまいました......。

 

 

 でも、本当にいきなり来るものなんですね。変化って。親と離れる決意も。小説家と呼ばれるようになった瞬間も。結婚も。小説が書けなくなる瞬間も。親との再会も。そしてたぶん死も。一生を変える大事な瞬間なのに、ほとんど前触れもなく。
 その瞬間が過ぎてしまえば、前からずっとそうだったみたいに、すぐに慣れてしまうのも驚きですが。

増田みず子「小説」p37