眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2020年11月29日(日)

「大事なことは 最初からある
血液みたいに体を流れて知ってるはずさ
きっと誰かは忘れちゃってるかもしれないな
星座レベルで語り継がれた フロンティアーの真実
君にもきっとすぐわかる だから聞いて」

 

昨日の異常な眠気はどこ吹く風、今日は8時頃にすんなりと起きることが出来て、そのあとも惰眠を貪ることなく日常を謳歌することに成功した。ちょっとだけ眠たい体を起こして朝食を済ませると、昨日録画しておいた「35歳の少女」を観た。またこのパターンか。大切な人が意識不明になって、その周りの人が苦渋の選択をする、あのパターン。途中までは話の流れや演者の演技が素晴らしくて、「これは神ドラマになるのでは?」と期待で胸がばくばくしていたけれど、なぜこの脚本家は最終的にこのパターンを好むのか。他の選択肢はなかったのか。このパターンになる前に違う話の持っていき方があったんじゃないのか。と考えてみたけれど、多分この脚本家はこのパターンが好きで脚本を書いているのだろうし、視聴者はこのパターンを好んでいるのだろう。このパターンにはまれなかった私がすごすごと退散するしかないようです。

 

 

大好きだったドラマがそうでもない感じになっていくのが嫌だったので、外に出て気分転換をすることにした。でも遊びたい気分でもなかったので、近所のスーパーで食料品を買い込むことにした。野菜のコーナーを眺めていて、「野菜炒め用の野菜」というものが存在していて、そっちの方が普段野菜炒めに使っている野菜よりもぐっと安いことに気付いて、ちょっといじけてしまいそうになった。でも中身をよくよく見て見るともやしがたくさん入っていて、そりゃ安いよな......、と落ち着いた気分になった。そこまで買ったつもりではないの蓋を開けたら3,000円以上も行ってしまうのはどうしたものか、私は買い物が下手なんだろうか。

 

 

家に帰って、このまま休日が過ぎ去ってしまうのが寂しかったので、映画「インセプション」(2010)を観た。鑑賞している間、「TENET」の時と同じ不自由さを感じた。「インセプション」の方が世界観を丁寧に説明してくれている点で非常に親切ではあるのだけれど、夢と言う設定の欠点がたくさんあり、その点は無視して物語を飛ばしているのに違和感を感じた。そもそも夢の中の夢という、ありきたりな設定を使っているくせにうまいこと生かせていないことにイライラした。観ている間しんどさを抱えることになり、2時間30分はあまりにも長かった。結局何がしたかったのか判然としなかったし、最後のあっけない終わり方に唖然とした。ネットや知人の評価は好調だったので期待値は高かったのに、この仕打ちか。次に観る映画はどうか面白いものでありますように。

 

 

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インセプション」(☆☆☆)

 

19時過ぎに映画を観終わって、先程スーパーで買った材料を使って久しぶりに肉野菜炒めを夕飯に食べた。肉はいつもと同じ牛のバラ肉を使ったが、野菜は野菜炒め専用の野菜を使ったので、普段食べていた野菜炒めよりも食べ応えがあった(そりゃ野菜だけで300gもあるのだから、食べ応えは十分だろう)。毎日のように肉野菜炒めを食べるのは苦痛だが、たまには食べてみるのもいいかもしれない。でもすぐに飽きてしまうだろう、そろそろ鍋が恋しくなってくる季節なので、鍋を導入してみるのもいいだろう(鍋の素は既に購入してある)。

 

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夕飯を食べて一段落してから、最近妙にはまっている町屋良平の「坂下あたると、しじょうの宇宙」(2020)を読み進めていった。ボクシング、音楽と来て、今度は文学(小説、詩)と、町屋良平はとにかく振れ幅の大きい作家である。私の趣味は狭い範囲しかないので、あらゆる分野のことを小説の題材に取り扱ってくれるのは非常に有難い。今回は小説や詩に夢中になる高校生を描いた、青春小説のようなものであるが、そこは町屋良平、単なる惚れた腫れたで済ませるようなつもりはないらしく、題材として扱っている詩を深くまで掘り下げることで、読者に詩に対する関心を持たせることに成功している。惜しむらくは「ショパンゾンビ・コンテスタント」でたまに見せていた人と人の青春の煌めきみたいなものを「坂下あたると、しじょうの宇宙」では始終見せつけられるので、続けて読んでいるとお腹がいっぱいになってしまう。坂下あたるの彼女である浦川さとかが特にお気に入りの人物で、この子が上手い具合に動いてくれているからなんとか読み続けられるようなものである。今回の作品も無事、良い場所に降り立つことを願っています。

 

 

 あたるから離れてわかったのだが、世間というものは、ろくにひとの話を聞いていない。
 相手の話に合わせて、一所懸命返答を考えて喋るということなんて、めずらしいことだ。おれにはそれが楽だった。内容をろくに聞いていなくても、テンションだけ合わせていれば浮くことはない。あたるの饒舌を必死で聞いていたときのような昂揚はないが、自分の話をすみずみまで聞かれている緊張もない。これがふつうだ。おれはそれで完全に満足していた。

「坂下あたると、しじょうの宇宙」p169,170

 

 

半分以上を読み終えて、他の小説を読みたくなったので図書館で併せて借りていた小川哲の「嘘と正典」(2019)を読み進めていく。「魔術師」と「ひとすじの光」を読んだのだが、この小説家は並みの小説家ではないことを証明するのには十分の2作品であった。マジックにも競馬にもたいした興味を持っていなかったのに、読み終わってから(なんでもっと前からマジックや競馬に興味を持っていなかったんだ)と後悔するくらいに、魅力的な短編小説であった。先ほど読んでいた町屋良平に比べると文章の熱というものは冷めている感じであったが、行間に込めている願い、もしくは祈りというものがありありと実感させられて、なんというか読んでて嬉しくなるような、心が跳ね上がるような体験をした。何でもっとこの小説家の作品を読んでいなかったのだろうか(「ユートロニカのこちら側」「ゲームの王国」は文庫本で所持している)、という後悔をすぐにでも消失させるために、ここ数日で一気にこの素晴らしい短編集を詠み終えてしまおう、そして次には新しい素晴らしい小説家に出会おう、と気分が盛り上がっていた。日常の充実が乏しいからこそ、現実逃避としての読書が盛り上がっていくことに薄々気づいていながらも、それが今私が出来ることの精一杯なんだろう、と思っている。

 


草臥れた体で親と話していて、昨日は祖父の35日だったので一家揃っていたそうだが、ウイルスが蔓延っている東京に住んでいる私は軽々と名古屋に行くことは憚られるので(3週間後の結婚式には行くのにね)、行かなかった(行けなかった)。結局昨日は一日中寝ていただけだったので、無理してでも地元に帰ればよかったのかもしれない。普段は盛り上がる会話も、私と親の波長が合わなかったのか、話していてあまり楽しくなかった。頻りに「Netflixで配信されている『コール』という韓国映画が面白いから見て」と言っていたが、「シャイニング」を拒む親がはまる恐怖映画とはいったいどういったものなんだろうか。まだ22時だったので観れる時間帯ではあったが、異常に怖かったらロフトに上がるのが怖くなりそうであったので、今日の鑑賞は控えた。

 


若干の眠気を携えながら、1時間ほどw.o.d.を聴いていた。聴き始めた頃はただ「かっこいいな」という感想くらいしか思い浮かばなかったが、聴きこんでいくうちにw.o.d.の抒情性みたいなものがじわじわと伝わってきて、聴いているとなんだか寂しい気分になってくるのがなんとも心地よくて、これだと今週の金曜日のライブを観終わったあとにどんな感情を持ち合わせていることになるのだろうか、とワクワクしてきた。なんとかライブは開催されそうな雰囲気ではあるが、12月にはまだまだライブが控えているので、その全てがどうか中止にならないように祈ることしか私には出来ない。そして名古屋で開催されるユニゾンのライブに行こうかどうか考えあぐねている。今回のようなライブは二度とないだろうから、三回は行っておくべきなんじゃないかな、と思っている。行くか行かないか、それは来週あたりに国がどのような対応を取っているかで判断しよう。頼む、頼むから中止なんて寂しいことにはならないでおくれ。24時を過ぎてもそこまで眠気はなかったのだけれど、明日は心地よく起きて一日良い気分でいたいので、適当なところで切り上げて眠ることにした。明日からの1週間も、どうか平和な日々でありますように。