眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

夏っぽいこと何一つしていないのに夏が終わる

今日は9月10日。暦の上ではとっくに秋である。日が落ちるのが最近では急に早くなってしまい、18時を過ぎると急に暗くなる。昼間はまだ蒸し暑さで夏を感じるけれど、夕方から急に冷え込んできて、半袖だと心許ない。今年の夏はいつから始まったのだろう。コロナ騒動で世間がわちゃわちゃしていて、外に出ることが憚られ、日々は会社に居るか家に居るかが殆どで、それ以外の、外でイキイキしている時間は殆どなくて、だから今年の夏は記憶が薄い。最初から薄められているカルピスウォーターになみなみと水を注いだ後の、残念な気分と同じ。今年の夏の記憶の殆どがテレビのなかでの出来事で、ときに人を愛したり、時に人を裏切ったりしている。私以外の人、それも遠い遠いところに住んでいる人が動いているだけの思い出。それはもう思い出とは呼ばないだろう。去年の夏、それも夏休みと比較してしまうとその差異にくらくらしてしまう。他の人も私と同じように、薄い記憶だけで夏が過ぎていったと信じたい、私だけが夏を生きることが出来なかったとは信じたくない。文学とはときに残酷で、そこで繰り広げられるきらびやかな世界が私の立ち位置を曖昧にしてしまう。不意に辛くなって座り込んでしまう、苦しそうに座り込んでいる私の傍らを無関心の人々が通りすぎていく、その温度感が値段を付ける。本屋ではやけにクーラーが効いていて、それは本屋に滞在している人を心地よくするためではなくて、本屋に在住している本が心地よく過ごせるようにするため、だから本屋に居るときは本のお陰で快適に過ごさせて頂いている、という気持ちを忘れない。離れない、離れてくれない孤独とともに生きていくことを決心できるほど、私はまだ強い人間ではないけれど、今年の夏をなんとか越えられそうなので、それなりになんとかやっていけるのでしょう、と決めつけてみるのも一興ではないか。まるで言語を失ってしまった人間のように、人と話す機会が皆無、音楽で人が歌っている瞬間だけが言語と戯れられる唯一の瞬間、あとはただ砂漠。気を許して話せる人は職場にはいなかった、だから仕事中はずっと仕事が友達で、仕事が終わったら誰かと一緒に帰ることなく一人でさっと帰る、そのスピードが大事。いつでも二人になれる、というのは一人でいることに慣れている人の言い訳で、それでもまあ生きていく上では支障がないのでそれでずるずるとやってきて、正常に戻す方法を忘れてしまった。正常って、一体誰が決めるんだい。ここに今書いている文章はあっという間に風化してしまうだろう、強靭さを求めず、ただスピードだけが取り柄のこの文章に生きる価値はない。くたびれて起き上がれなくなった人の横を立派な人が颯爽と通りすぎていく、それが最近の日本であって、そこに救いを求めるのは無粋である。崩れ去った家族という制度にいまだにしがみつくおじさんどもが揃いも揃って同じネクタイを付けているような、そんなことをそのまま受け流しておくことをこの日本では正常とみなす。冷蔵庫にいつまでも張り付いているシールを許容しておくほどの寛容さは存在しなかった。いつだって誰かが誰かの味方で、敵であることをいつまでも認めないその凡庸さが素敵だった。夏が終わる、と思っているこの瞬間がぐっと目の前に近づいてきて、私は何も出来なくなってしまって、ただ立ち尽くしているだけで呆然と時間が過ぎていく。少しの勇気があれば海外へ飛び出して行けただろう、目の前にぶら下がっているしけたトウモロコシを眺めながら、明日の献立を考えている。