眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

ちょっとしんどくなって、俯いている

疲れているのにお酒を飲んだ私が悪かったんです。ただでさえ仕事で自分の存在が無くて凹んでいるときにアルコールを体にぶちこんで、ずっとしゅんとしていました。本を読む体力がなくて、ネットの海をだらだらと浮かび続けて、あまり喜ばしくないものを摂取しているのもよくなかったんです。結果、ああ、もうむっちゃ嫌だ嫌だ嫌だ嫌い嫌い嫌い、と考えている自分が嫌いになった。

 

自分が輝けるような場所は、今生きているこの世界にはなかった。

 

と、ふと思って、それはずっと前から考えていること考え尽くしたこと。普段は考えないようにしているけれど、でも、ずっと、ずっとそれは引っかかっていた。全ての人間が自分の生きたいように生きているわけではない。平日は会社に行って仕事をする、食べたいものは食べれる、楽しみたいことはだいたい楽しめる、休日は週に二日あって、そのどちらも好きなように使える。厄介な人間関係はないし、苦になるような家族はいない。そんな恵まれた環境だけれど、たまに厭世的な気分になってしまうのは私が多くを求めている証拠なのか。自分なんて......、としゅんとなって、全てが馬鹿馬鹿しくなって、目の前で繰り広げられていることを終わらせたくなる衝動、肩が微細に震えている。

 

 

知ってる。明日になっても私は変わらないって。変わらないことに安心をおぼえている自分がいることも。臆病で、人と話すことがへたっぴで、好きなことにとことんのめりこんでしまって周りが見えなくなってしまうことが多いこととか、そういうところが自分にあって、そういうぶぶんは私の根本的なところで、多分、一生変わることはない。この自分と一生を添い遂げなければならない。覚悟はまだない。でも、この文章を書いていてちょっとだけれど心が落ち着いた。ネットを徘徊していた時に「あああ、ああああ」と悲鳴にもならない嗚咽が心から駄々漏れしてて、泣きたいけれど泣き方を忘れてしまって非常にしんどかったけれど、今は前を向いてみるのも、まあいいんじゃないんでしょうか、と思えるまで回復した。別に無理して自分を出さなくてもいいだろ。いつか出会う、一生を共にする伴侶に心を許せるのならば、それでいいんじゃない。もしかしたらそういう伴侶に会わないで一生を終えてしまうかもしれないけれど、それはそれでそういうことだ。恨みっこなしの、一度限りの人生が明日も続いていく。

 

 

生きていくのだ。