眠たげな猫の傍で

眠たげな猫の傍で

世界の果てで眠っていたいな

2020年6月11日(木)

「なんか違うよなんか違うなんか 今さっきちょっと思ったんだ
君を泣かせる世界の方がおかしいよ」

 

いつも起きるべき時間の1時間早めに起きてしまう癖を取り外したいのだが、その方法が分からない。寝坊してしまうという恐怖で、神経が昂って深い睡眠に入れていないのか。朝はいつもの朝で、太陽の光が若干鬱陶しく感じられた。朝に垂れ流されているニュースは生きていくうえで不必要極まりない情報ばかりを発信していて、よくもまあそんなものを公共の電波で、と思う場面が何度もあった。テレビのニュースとは距離を取った方がいいのかもしれない。通勤電車はコロナ以前の満員電車で、もう諦めてしまった。どうせどれだけ予防したところで罹るときは罹ってしまう、と思ったほうが心が楽になる。マスクを着けていない人を見るとついイラっとしてしまうが、私だってこんな蒸し暑い日にマスクなんてものをつけていたくないという欲望の反転から来るものであって、本来ならば私がマスクを着けていない可能性もあったわけだ。会社近くの交差点で営業の同期に会い、寝不足で困るとのこと。在宅勤務の時は始業時間ぎりぎりに起床していたのに、今はそれの2時間前に起きているので体がだるくてしょうがない。うちの会社にコロナが影響してくるのは3年後あたりだろうか、とか、彼が配属されている部署の未来は暗いので転職したい、だとか、そういったとりとめのない話をしていたら会社に着いたので別れた。私は彼以外の人と雑談をすることなく生きていて、久しぶりに人と話してみるというのは非常に難儀なものである。そもそも話したい内容がないので、付け焼刃の話題に終始してしまうのは私も相手も不本意であろう。もともと人と話すことが苦手であったが、自粛期間を経てより話すのがへたくそになった。今後も自粛が続いていくとしたら、いつの日か声帯が衰えてしまって、簡易的な発音しか出来なくなってしまうかもしれない(母音のみとか)。ということを考えることが出来るほどに、2日ぶりの会社での仕事は暇だった。

 


私とコピーロボットと井戸端会議さんは一つのチームみたいなものを構成している。ただ、お互いの情報共有が馬鹿みたいに出来ていなくて、いつも綱渡りで仕事をしている感が強い。処理しなければならない書類Aというものが全国から集まってきて、チームの誰かがそれを処理しなければいけないのだけれど、昨日はコピーロボットと私は在宅勤務で、井戸端会議さんだけが出社していた。そのような場合、井戸端会議さんが書類Aを処理しなければいけないのはわざわざ言わなくても分かると思うのだが、井戸端会議さんはその処理を行うことを異様に嫌がる。今日出社した私に「昨日溜まっていたから」と突きつけてきた大量の書類Aを見て「どこからどこまでが誰の仕事なのか、一度はっきりさせたほうがいいんじゃないか」と思った。誰かがやってくれる、と誰もが思っていると遅々として仕事が進まない。他人に任せっきりというか、面倒なことは他人に押し付けてしまうような風潮は忌避するべきであり、誰もがスムーズに業務に取り組めるようなシステムを構築することが先決であると思われるが、組織の首謀者であるはずのコピーロボットは組織を先導していくような素振りは一切見られず、執拗にテンキーをショッピングサイトで見ているだけだ。もうコピーロボットといちいち打つのが面倒なので、これからはテンさんとでも読んでしまおうか。1日だけ在宅勤務をして溜まった仕事はものの1時間半で処理してしまったので、在宅勤務2日出社1日で、出社の日は午前中で仕事を終わらせて、そのまま家に帰ってしまうのがベターなのではないか、と上司に進言したくなった。なっただけで、実際に行動に移すことはない
けれど。

 

 

席の後方部が賑やかである。コロナが世間を賑わすようになり、人と人との距離の感覚を取りましょう(物理的でなく、精神的にも取りたいところだが)ということで、私は元居た場所から遠い遠い所へ飛ばされた。所謂島流しというものである。周りには総務や法務など、普段はやりとりする機会のない人々がいて、その人々にもきちんと営みというものがあるのだな、と席が変わってから実感している。それで騒音問題である。騒音、というレベルではないが、雑談の域を越えている声が聞こえてくると、ちょっとイライラする。この苛立ちは私が狭量な人間であることから起因しているので、少しくらいは心にゆとりを持てれば解決する問題である、と思っていたい。今日は女子3人衆が揃って出社して、隙あらば雑談、という状況であった。それを周りが咎める様子はないので、私のイライラの方が特殊なのである、と自分に言い聞かせている。彼女らは週に一度くらいいしか出社してこない、今流行りの「リモートワーカー」で、話題に上がるのもそれらについてのことが多い。やれ「通勤しないと痩せない」であるとか、「自宅で仕事をしていると電気代が食われてしまう。その分を会社が補助してくれれば」とか。ようは大半が愚痴で、普段は自粛で人と話すことがない彼女らにとって、職場で同僚と話すことは大切なものなのであろう。これ以上書くことはない。

 


今日の仕事はなんとも意味のないものであった。と記述すると「普段は意味のある仕事をしている人なのかな」と思われる人がいるかもしれないが、普段から意味のない仕事をしている。東京に来てから「今、私は、意味のある仕事を、しているんだ...!」と思った瞬間はたぶんない。そんな興奮があるのならば克明に覚えているだろう。そもそもの話、大学生のアルバイトから今働いている経理職まで、「意味のある仕事をしている」と感じた瞬間というものが私にはなくて、それは少し寂しいように思える。しかし、そのように感じられないのは私の方が仕事に働きかけていなかったからであり、当然の帰結ではある。仕事に期待しなければ、仕事の方も私に期待してくれることはないだろう。そういうわけで、大学生の頃から働き始めて9年くらいが経過してしまったが、本当の仕事というものを私は知らない。無理するくらいであれば別に知りたいとも思わない。ただ、まだ30年以上も働いていくからだとこころである。このままローテンションで仕事と向き合っていってもいいのだろうか、という悩みはある。そんなしょうもない悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。親に相談したところで「誰だって苦労しながら仕事をしているの。楽な仕事なんてこの世界にはないのよ」と論点をすり替えてくるに違いないし、私が求めている答えと言うのは既に私の中にあって、それを誰かに求めるものではなかった。仕事とは曖昧さと無情さとの闘いであり、その現実から逃避するために上記した彼女らは雑談に興じているのではないか、と無理やりこじつけたくなるほどに今日の仕事も意味がなかった。

 


充実感のない仕事を終えて、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って、買い物をして、家に帰る。そんな人生のどこが楽しいと言えるのだろうか。コロナ以前はそんなモノクロの生活の中にライブがあって、非日常なライブを体感するたびに疑似的にではあるが「人生は生きるに値する」という錯覚を覚えた。ライブに行けない状況で、家と会社の往復を繰り返していると、空しさというか、「この生を繋いでいく意味とは?」と頭を抱えたくなってしまう。私は弱い。だから今、韓国ドラマに縋って、一時でも無意味な日常から離れたくなる。ただ、韓国ドラマを観ていると、そこで繰り広げられている日常非日常も私の生と地続きであり、それを自覚してからではないと前へ進めないのではないか、というのが最近出した結論じみたものである。それを大切に守っていくのもいいし、「どうせこのまま生きてしまったところで」と終わらせることだってできる。その終わらせる勇気があるくらいだったら、と誰かが歌っていた歌詞が頭の中でリフレインしている6月11日木曜日の夜。

 

 

「ハイバイ!ママ」の9,10話を観る。う~ん、こんなだらだらと続けられると観る意欲が失われてしまう。一番の懸念点であった母親に見つかり、さてどうするのか、というところでまた継母とのうだうだとしたやりとりを見せられると「わざわざ16話にしなくても、10話でさくっと終わらせた方がよかったんじゃないか」と呆れ果ててしまう。今回も誰かが泣いているし、野球選手の誤診?をした医師が野球選手のファンに卵を投げつけられるシーン要るか?引き延ばすためにわざとこんな不必要なシーンを追加しているんじゃないか、と思わせられる場面が何度もあった。最初の滑り出しが良かっただけに、(う~ん......)と頭を抱え込んでしまう。あと6話もあるのか、どうしようかな......。

 


だらけたドラマを観てすっかり疲れてしまった体をロフトに追いやって、阿久津隆「読書の日記」を引き続き読む。読むんだけれど、低気圧のせいだろうか、妙に眠たくて、10数ページ読んだところで読むのを諦めて、少しだけ横になった。ちょっとだけでも休憩したら少しは眠気も和らぐだろう、という見通しは甘く、気付いたら眠りこけていました。